「通りすがり」考

http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20051007#to について
なんか「圏外からのひとこと」のコメント欄で反響があった。
http://amrita.s14.xrea.com/d/?date=20051011#c01

通りすがり (2005-10-12 00:49)
全然「通りすがり」でないのに「通りすがり」を名乗るのは、一種のアイロニーか洒落のつもりではないでしょうか。それにあえて突っ込むのは? まあ、私見ですが。
通りすがりで失礼いたしました。

これを皮切りにぽつぽつコメントがついている。当該記事を取り上げた、essaさんの「私も「通りすがり」には違和感を感じる。」に対してコメントしたい人がほとんどだろうから、自分がここでなんかいう必要もないかもしれないけど、せっかくなのでちょっと書いておく。
この間は「名無し」を同列に扱ったが、今から考えるとこれは筆が滑ったというやつで、誤解を招いたかもしれない。ちょっと留保をつけておきたい。「名無し」とは「名乗るべき名がない」ということであり、自分の拠点をもってない人(サイトやブログを持ってる必要はない。根城にしてる掲示板がある、などでもOKだと思う)がコメントするときにつかいやすいのだろう。だから「通りすがり」よりはコメント欄にあっても違和感が少ない。それでもずっと滞留しているケースを見ると、主に識別のために、限定的にでも名乗れよ、と思うけれども。
「名無し」よりも「通りすがり」に違和感を覚えるのは、「通りすがり」のハンドルでコメントをつけ続けている人を見るときだ。そういう意味では、「通りすがり」にはいくつか種類があるといえる。web検索という行為は、確かに一定の「通りすがり」性みたいなものを持っていると思う。これはブックマークや他の人のアンテナなどからとんできた場合も同じである。
たとえば検索で来た人が必要とする情報を手に入れたついでに、単純な事実誤認とか作者が疑問を表明していることに示唆を与えようとして名乗るなら、あまり違和感を感じない。村人が道ばたで倒れた動物を囲んで、これはなんだこれはなんだと言ってるときに、街道を通る旅人が、それはカモシカですよ、とか答える感じ。こういうのはまごうことなき通りすがりだ。
しかしそういう一方的な伝達で成立する情報交換ではなく、ハンドル「通りすがり」が議論を仕掛けることは虚しい。第一に、自ら「通りすがり」と宣言することは、こちらがコメントに対してなんらかのアクションを起こしたとしても、対応しないと言っているに等しい。旅人はどっかいっちゃうもんなあ。否定にしろ肯定にしろ、コメントつけられるのは興味深いし、ディスカッションで理解が深まればいいなあと思うけれども、ハナから「通りすがり」と宣言されると、「俺はいいたいことだけいってどっか行っちゃうしおまえの相手をする気はないんだけど、でもおまえに文句はつけとくもんね!」と感じてしまう。ジャイアンだ。反論を許さないどころか、最初から聞く気なしだ。こういう態度の通りすがりさんには、通ってもいいけどすがるな、と思う。かといって、「通りすがり」と名乗る人が、延々コメント欄で粘着しているのを見ると、通りすがりとかいいながら宿とって長期滞在してるんじゃないか、と疑ってしまう。自炊とかしてそうなくらいに。これには語義矛盾を感じる。
というわけで、「通りすがり」が議論をチャレンジするのを見ていると、(1)どっかいくと宣言してる人と真面目にコミュニケーションする気になれない、(2)どっかいかないなら「通りすがり」じゃない、という2点からむなしさ大爆発なので、真面目にコミュニケーションしたい人は名乗るべきでないと思う。
もちろん、相手とコミュニケーションする気はそもそもなくて、言い捨てる気まんまんなら使ってもいい。でもそういうときは、コメント後に二度とそのコメント欄を見ないくらいの節度を持って欲しい。「通りすがり」とか言っといて、相手の出方をわくわくと待ってるのはやっぱりおかしいと思う。同様に、「通りすがり」でコメントして真面目に扱ってもらえないのも必定と諦めるべきだろう。
ここで冒頭のコメントに戻るが、自分の想定には、通りすがりという名乗りが「一種のアイロニーか洒落」を意味しているというケースはなかった。このあたりはちょっとよくわからない。明らかに通りすがりじゃなくて探してやってきてるのに通りすがりっていっちゃってるよ、というアイロニーってことかな?まあでもそういう言い方でいえば、あえてなことにあえてつっこむというのも、ひとつの笑いだと思います。それを追求したつもりだけど、切り取られたらわからなかったかもなー。

巨乳女子大生

自分の活動歴においては、巨乳女子大生といえばzenhiteiさんのアイコンなのだが、最近のはてなではfake-jizoさんのアイコンとして確立されつつあるようでなによりである。
やっぱネットに巨乳女子大生は必要だよね。あとはいい匂いのする人とかメガネっ娘とかショタっことかもあってよし。

モヒカン族とはなんだったのか

「終わった」メソッドに加えて「なんだったのか」メソッドを提案したい。第三者的な立ち位置を確保しつつ、一方的な総括を行って、偽の歴史をさっくりつくりあげるやりかた。
で、実行してみようと思ってタイトルだけひねりだしたが、さっぱり思いつかないのであとはまかせます。otsuneさんがついに飽きたっぽい*1ので、メイビー、今がチャンスです。mixiなどの隆盛を受け、リアルから遊離したネット世界の存在基盤が危うくなった2005年ならではの風潮といえよう、とか言って締めるといいんじゃないだろうか。
個人的な感想としては、まーいつものことですけど、「モヒカン族」の諧謔や自嘲に目もくれず、免罪符だと思ってモヒカンモヒカンいいながらムラ強化に努めてるやつがいたなー、と懐古しておきます。モヒカンだぜ、とかいいながらぶっきらぼうだったりぶしつけだったりするのは、それはおまえ、ただの殺伐じゃないかい。モヒちゃんってぇのは、そういうもんじゃぁねえのよ、と寅さんっぽく言っておきたい。
ああ、寅さんって、ムラ社会アウトサイダーとしてやってきて、アウトサイダーなりの視点で問題解決して、そしてまた去っていくわけだから、なんかモヒちゃんのソフトランディングって気がしてきたな。モヒちゃんの本質はきっと、殺伐じゃなくて議論と人間関係の弁別だからさ、外側に丁寧があっても中身はモヒってのは完成形だと思うよ。外が殺伐で中がサルの順位付けみたいなのは、早く世界からなくなればいいのにね。

*1:そうでもないっぽいけどそうしないと話が進まないので!

ディアスポラ

グレッグ・イーガン ディアスポラ (ハヤカワ文庫 SF)
きっと誰もが言っているでしょうが、最初の40ページほどがえらいことになってる。なんとか理解は出来たけれども、頭が筋肉痛になりそうだった。神経の筋肉痛。自分は先に読んだ人から評判を聞いていたので、なんとか耐えられたけれど、ひとりで立ち向かっていたら脱落してたかもしれない。もし今、ひっかかってる人がいたら、それでも頑張って読み進めてください、と言いたい。55ページくらいでカタルシスがやってきますから。イーガンの長編はいつも自分にとって難しいんだよねえ。短編はスマートなのに、長編だとアイディア部分が複雑すぎるのかもしれない。京極堂みたいだな。京極堂では蘊蓄を流し読みできるけど、イーガンの世界観部分はなかなか流し読めないので困る。今回は連作短編っぽい造りなので、万物理論よりは読みやすかった。一番好きなのは「ワンの絨毯」かな。
読んでるときはしんどいけど、読み終わると気持ちいい、そんな感じです。