げんしけんとあ〜る その2

あっというまにkanoseさんのところからの訪問者が255を突破したので、あらためてこの話題を取り扱っているところをぐるっとひとまわりしてみた。関係ないけど、ARTIFACT@ハテナ系にとりあげられるとパンクするくらい人がくる。今回のは取り上げられ方のせいかもいれないけど、かのダイアリの読者の人は、リンク先クリック属性の高い人たちなんだなーと思ったりしていて、こういう質的なデータをちゃんと取れば、アクセス数の補正に使えるんじゃないかと思っている。どうですか、ベンチャーの人。今ならアイディア料だけでいいでげすよ(笑。
げんしけんとあ〜るの違いについては、媒体の違いとか舞台の違いとか作中の時代の違いとか作者の世代の違いとかの解釈が多いようだ。だけど自分は、下にも書いたけど、ゆうきと木尾の作家性の違いが一番大きいと思っている。四年生と五年生の延長上にげんしけんはあるし、あ〜るはバーディーやじゃじゃ馬と通底するモードを持っている。前者は内向とかナイーブで後者は前向きとか明日へ向かってな感じ。だからゆうきまさみは少年誌で描くのにふさわしい。したがってげんしけんとあ〜るは相同ではなく相似なのだろう。もっとも後発のげんしけんの造形にはあ〜るの影響があってもおかしくないと思うから、木尾にあ〜るをどう思うのかを尋ねるのは面白そうだ。
とここまでかきながら、げんしけんにはセックスの匂いが濃厚なのがイヤな感じの原因かもしれないと思った。いろんな意味で。女が絡んで男同士の友情がえらいことになる予感とか、大学生ならではの行き止まり・人生無駄遣いセックスの雰囲気とか、そういうのがいやなのかも。ってだからそれがいやだっていうのは四年生が辛気くさくてうっとうしいのと同じ理由なので、やっぱり木尾作品に通底するなにかが問題なんじゃないかな。
考えてみればあ〜るの時代は高校生の部活漫画にセックスを介在させる必要がなかったんだよね。実態としてそういう高校生はいたかもしれないけど、少年誌の漫画ではそれを描かなくてもリアリティは減じなかった。タッチだってそうだよ。あ〜るはある意味セックスのない世界だ。セックスがないから童貞差別も生まれない。あ〜るをめぐる微妙な恋のさや当て(笑)もあったけど、中心的人物がアンドロイドだから、生々しさはもとより回避されるし。その辺の性の未成熟がパラダイス感を担保していたのかもしれないな。