現実逃避としての雑誌ファウスト語り

逃避。今日のやること全然おわってない。超マズイ。なのに気になってファウストでジャンプしていろいろ読んできた。夜のファウスト祭りレポを中心にはてな人ファウスト語りを見つつファウスト語り。
自分は西尾維新舞城王太郎をもともと新刊で即買いする読者だったので、定期的に二人の小説が読める、ということでファウスト買っただけなんだけど、そういう読者は求めてないのか。なんていうか入れ物に全然興味ないのだ。別にメフィストでも小説現代でもその二人が連載すればたぶん買う。だから自分にとって重要なことは、ファウストならではのカラーみたいなことではなくて、定期的に出してくれ(しかもできれば頻繁に)、ということだけなんだけど、ちがうんだね。少なくともある一定のはてな界隈ではもはやファウストというのは何かの象徴的存在なんだね。だいぶびっくりしたよ。もちろん、小説現代の増刊としてメフィストができた、のは知っているから、さらにその増刊的なファウストにのる文章には互いに似通ったカラーがあるだろうことは想定していたけど、なんかそんな次元じゃないんだね。じゃあ版型を小説現代メフィストと一緒にして欲しい、なんて口にすることも許されない希望なのかな?幼少期から親が買う小説現代・新潮とともに育った自分には、あの手触りこそが小説誌なんだけど。で挿し絵は宇野亜喜良で。漫画は谷岡ヤスジで。そんなファウスト見てみたい。
そういう意味ではあれですね、西尾と舞城みたいにファウスト以前から存在した作家ならともかく、これだけ読者の一隅に妙なコミットメントがあるなかでファウストでデビューしたりすると、すごい面白いスタートになるでしょうね。ほら、一部の同人誌上がり作家とか小劇場上がり役者とかが言われてるようなかんじのイメージが。ま、でも、応募してくる方がすでにファウストバリューを共有してるだろうから、現実的にはあんまり面白いことにはならない公算大。