読まずに批判するかまやつ女、あるいは読む前に期待するかまやつ女

といってもサンデー毎日はよんだので(あ、あとカルチャーレポートと)「ちょっと読んだだけで批判しちゃうかまやつ女」が正解だけど。本が出たことでもう一度考えると、著者の言いたいこと、すなわち社会における女性の生き方戦略とか、女性の階層格差とかそういうあたりはわからんわけではないしそういう社会時評は必要だと思うけれど、アイコンが「かまやつ」というのがどうにもこうにも納得がいかない。かまやつ女以後、意識するようになった三浦展氏だけれど、「ファスト風土化」にジャスコをもってくるのはなるほどなあと思っただけに、かまやつ女のすっとばしぶりには首を傾げざるを得ない。誤解を恐れずに言えば、この手の時評の値打ちはアイコン選択の絶妙さにあると思う。したがって内容の良し悪しに関係ないからといってアイコン選びの見当外れぶりを看過するべきではないだろう。
あともう一つどーしても気になっているのが、「六條女はどこへ?」ということである。サンデー毎日初出時には「かまやつ女かまやつ女にたいして「六條女」っていうのがあったのです。で、もともと 六條女はなんかあやしい気配がしたわけで、ワタクシなんぞはとかく噂があった六條華さんの背後関係がオヤジ雑誌サンデー毎日サイドに押し込んだんじゃないかと想像していたわけだが、そうではなくて六條女は三浦氏自身の発案によるものだという*1。ご存じのようについ先日、六條華という存在はゲシュタルト崩壊して、新しい名前で出直したと言えばそうなのだが、見ている側にとってはワケワカラン状態になっている*2。さてこのような現状に対して、かまやつ女本は「六條女」というアイコンをどう処理しているのだろうか−−って書評やレビューを見る限りでは出てないっぽいなあ。こういうのがまた萎えるんだよね。アイコンを乱発して観測気球を上げては当たったやつだけ残してるんじゃないかと勘繰ってしまうに。