サークルクラッシャーでぼんやりと思い出す

我々の身の回りでは「同一サークルでつきあっていいのは3人まで」という三振アウト制が暗黙のうちに了解されていた。まー、母集団の大きさにもよるのだろうけれども、そんなめちゃくちゃでかいサークルやナンパ目的サークルを除けば、体育会・文化系問わず、経験的に言って3人を超え始めるとものすごくとっかえひっかえしているように映るわけで、そういうあれから産み出されたものなんだけれども、使用例としては、「●●は4人目らしいよ」「サイテー」とか、「俺もう××で3人目だ」「まだセーフだよ」とかいうもので、つまりここを超えたら声高に非難(つまり酒の肴)にしていいというきわめて他律的なものであって、サークルクラッシャーとは全然用法がちがったのだけれどもね。
でもサークルが壊れるって感じはしなかったな。3人以上超えて男女関係を取り結んでいる人には、撃墜王とかそういう呼称の方がしっくりきていたような。根本的にはサークルの社会的関係と個人の人間関係は別立てとされていたからだろうけど、実のところは「あいつはサークルクラッシャーだ!」とかいう雰囲気より、「いやぁ△△さんは撃墜王だからねえ、ふはは」という雰囲気の方が、強かったからだな。なんか「サークルクラッシャー」という言葉を、不特定多数が特定個人について言明するようなサークルはいやだなと思った。いやっていうかまじめっていうか。原始共産制
追記:っていうか、◎◎サークル、たとえばテニスサークルならテニスをするために人間がいるのであって、人間関係を豊かにするためにテニスをやってるわけではない、と考えるので、このサークルクラッシャーと指差す文化がよくわからないのかもしれない。誰と誰が付き合おうが何しようが、核となる活動をやってればそれでいいんじゃないのか。
・・・というようなことを考えていたら、いわゆる“サークル”活動をやっていたときも、同じ趣旨の意見対立で疲れたことを思い出した。◎◎がやりたいわけじゃなくって人間関係をやりたいだけの人たち―たまたま最初に◎◎に出会ったからうちのサークルにいるけど、違うものならそれはそれで幸せだった人たちと、◎◎がやりたくてやってきた人たちでは、ことごとく意見が対立したものですな。ああいやだいやだと思い出し怒りしている。