眼の疲れ

ネットや読書など仕事も遊びも眼を使うので、眼の健康に対する恐れはつよい。ジェフリー・ディーヴァー「青い虚空」の中に、ネットに耽溺する高校生が失明を何よりもおそれるところがあったが、他人事とは思えない。寝る前に布団の中で読書をするのは眼にはすこぶる悪いのだろうがやめられない。
というわけで、眼の疲れをとる方法をついつい調べてしまう。まとめると、

  • 充血には
    • 冷やす
  • しょぼしょぼしたら
    • あたためる

ということで、冷やしタオルや電子レンジ蒸しタオルを常備するとよさそう。
眼のツボ:http://www2.health.ne.jp/library/4000/w4003020.html
ところで日常のいろいろを書くのに[徒然]というカテゴリ名はイケテルとおもったのだがごくありふれていることに気がついた。結果的に真似真似くんである。先行の方々、失礼しました。

実話ナックルズO4Mar.

3月号だと思ったが2月号だったかも。ナックルズ買うのは久しぶりだ。出版され始めたころに何度か買ったが当時はあまり好ましく思えなかった。今よりもっと暴力団・暴走族ネタ(いわゆる実話誌ネタ)が多かったように思う。久しぶりの今回は、実話ネタだけでなく事件・政治・芸能などバランスのよい雰囲気であった。続けて買ってもいいかなと思う。
前身というか、まだ街ネタ雑誌だった時代のGONはよく買っていた。増刊も別冊も漫画GONも買っていたと思う。おとこGONとかあかぐみとか。買うのをやめたのは編集部員が入れ替わって特集の方向性が変わったからである。GONから手を引いたのちは、ナックルズ編集人の久田将義氏がやっていたダークサイドJAPAN(DSJ)をほぼ全号買っていたと思う。ただDSJの休刊と、それについて噂の真相が組んだ特集における久田氏の言葉がどうも腑に落ちなかったので、あまりよい印象を受けなかった覚えがある。
今回は、「岡留安則インタビュー」を目当てに買った。インタビュアー本橋信宏氏で、構成?というか編集部担当は久田氏。インタビューにインタビュアーの生の感情が混じるのは好き嫌いがあると思う。自分はあまり好きな方ではない。この記事ではインタビュアーがインタビューに仮託して自分を語っている雰囲気があり、あまり面白いとは思わなかった。全体のポイントが2人の関係性に置かれているため、岡留氏に対してつっこみ不足と感じる部分が多く、欲求不満を覚えた。本橋氏のいつものスタイルと言えばそうなのだが、とはいえ、インタビューと銘打つからには岡留氏の話が聞きたいわけで、岡留氏を前にした本橋氏の回想については大して興味も持てない。記事前文の久田氏の文章も、「本橋氏にくっついてあの噂の真相編集部におじゃました(大意)」というようなもので、久田氏が本橋氏や岡留氏を尊敬しているというのはわかるのだが、それを聞いてこちらとしてはどうすればいいのかと問いたくなるようなものであり、全体に釈然としなかった。内容自体には意外な話もあり面白い部分もあった。自分がひっかかるのはすべてインタビュアー・構成者の視線/枠組み/フレームであり、内容が拙劣なわけでは決してないのであしからず。せめて表紙に「岡留安則本橋信宏が聞く」とでも書いておいてくれればここまで気にはならなかっただろうなと思う。
"噂の三信半疑"を久々に見て懐かしく思ったが、「男性アイドル某の尻に人面瘡!」に大爆笑した。感傷どころではない破壊力だ。

<癒し>のナショナリズム

小熊英二上野陽子:慶応大学出版会:ISBN:476640999x
本書は「新しい歴史教科書をつくる会」に対する実証研究と分析の書である。1800円の値打ちは十分ある。厚みもうすいし、カバンに入れて持ち歩いても重くない。オグマーを手軽に試したい、という自分の目的には十全に合致している。「<民主>と<愛国>」6000円超900頁超にいきなり手は出しにくいので。
ところで、自分のバイアスをまず明らかにしておきたい。自分は日教組社会党的な風土で育った。現時点ではそれよりは少しプラグマティックな方向にずれてきており、戦争は外交の一手段ではあるが、最後の手段であると考えている。しかし自分が戦争で痛い目に遭うことはできるだけ避けたいと思っている。「新しい歴史教科書をつくる会」とそれに関連するものに対しては感情的な拒否反応があり、国に対する滅私奉公を良しとする姿勢をもっとも嫌悪している。自分の認識では国と国民は契約関係にあると思っているので、国と国民は対等であり国民は選挙・納税その他の契約条項によって国に干渉できると考えている。感情的な嫌悪が先に立っているので、実際には「新しい歴史教科書をつくる会」についてはよく知らない。しかし戦前の国体論や天皇を頂く国民という図式をつくろうとしていると感じている。自分は戦後のそれなりに平等な公教育や職業選択の自由などの恩恵を受けていると強く感じているので、社会に階層性を復活させるように復古的な動きには同調できない。概ねこのようなバイアスを持った自分が読んだ記録である。
本書は
・第一章:「左」を忌避するポピュリズム−現代ナショナリズムの構造とゆらぎ
・第二章:『新しい公民教科書』を読む−その戦後批判を点検する
・第三章:<普通>の市民たちによる「つくる会エスノグラフィー」
・第四章:不安なウヨクたちの「市民運動
の四章立てである。中核となるのは第三章の上野による実証研究であり、小熊の第一・二章はその基盤となる現状整理、第四章は実証研究を受けた総括であるといえる。
第一・二章は、「運動」がなぜあんなにブームになったのかという疑問に対して、明快な解説をしているように思う。 読んでいて思ったのは、きっと普段よい世の中とはとか日本にとっての第二次大戦とはとかそういうことを考えたり、議論したりする場がない人がこのような運動にひかれるのだろうなと言うこと。家庭環境や交友関係の中で趣味としての議論を楽しむ環境があれば、「運動」の提示するビジョンにつっこみを入れたり、自分の内的なビジョンとの相同を検証したりできるのではないか。自分にとって国家とは、というような問いがないから、あるいはあるべき国家ビジョンが欠けてるから、小熊に第二章で激しくつっこまれるようなよくよく読めばお粗末なビジョンにひっかかるのではないか。
第一章よりも第二章の身も蓋もないつっこみぶりが痛快であった。自分は本書しか読んでいないが、まず最初に『教科書』に目を通してから読んだ方が面白いかもしれない。なんというか、小熊の読解をおっていくとなんでこんなお粗末なものがブームを博したのだろう、と不思議になるくらいである。
本書の感想からははずれるがテクストとして取り上げられる言説をよんで腹立ってきた。『若者には日本の文化が伝わってない!』とか言い出す輩を見ると、その「若者」って誰なんだと思う。自分は日本文化について外国人に説明できるくらいの造詣はあるつもりだが、その知識は基本的に公教育から得たぞ、と言いたい。自慢じゃないが日教組組織率がかるく50%を越える公立学校においての話である。そういうわけで「日本人としてのアイデンティティ」を求めて苦しむ、というのには、考える気がなかったから得られなかっただけじゃないですか/切実な必要がなければ別に確立しなくていいもんなんじゃないですかと言いたいが、原因を公教育の不足に帰するというのはさらに理解できない。まあでも理解できないとか言っているとそこで止まってしまうので、もうちょっと考えると彼我の差というのは公への期待度の違いなのだろうなと。国家にもっともっといろいろしてほしいのだろう。大きな、そして自分にとって好ましい群れに所属したいという気持ちが彼らにはあるのではないか。国家とか自治体の規模でしかできないことをやってくれればそれでもいい、思想は自分で面倒見るや、というような自分の考え方は彼らにとっては憎むべき"ミーイズム"であるのだろう。疑問なのはなぜ彼らがそこまで公に期待できるのかということだ。運動自体は、体制への批判からスタートしているのに。何を担保にそこまで無邪気に公を信用できるのだろう。非常に疑問だ。
第三章は非常に面白い。「新しい歴史教科書をつくる会」と「」でくくってしまったときには失われる、実在の人々の存在がよくわかる。真面目な人たちだなと思うと共に、つくる会本体への批判的意見のところでは、主体性のなさを感じた。想像していたよりクールな感じである(第四章で小熊は“ニヒリズム”と読んでいる)。卒論かよ!?といいたくなるくらいとても立派で丁寧な記録である。実証研究自体については小熊の序文と上野のあとがきに指摘される、調査者と対象の関係性が興味深い。
全体を通じて、つくる会運動よりも運動を生み出す土壌について考えなければならないというのが小熊の論考であるが、自分は原因はコミュニケーション不足なのではないかと感じた。もっといえば議論不足。議論しながら自らの信条を育てていく環境がないので、不満や批判を表出できなかったり、そこを掬いとられて運動にいってしまうのではないか。とはいえ運動にいっても、熱心には活動しないし時には批判的ですらある。あくまでも傍観者、神の立場であろうとしているように思う。こういう態度は無定形な現状への不満が核にあるという分析が正しいのならば、つくる会よりももっと戦略的に自覚的な運動に狙い打ちされたらどうなるのだろう。もっと比較的穏当で組織力のある運動体にさっさと勧誘してまわっといてもらいたい、と思ったりする。