デタラメ/からかい/不真面目、そして誤読

揶揄とか不真面目なへらへらとかに生産性がないことは明らかではあるが、そもそも有効な生産を行おうと思ってなにかを行っているつもりはないが故に、生産性が無いという批判を受けても首肯せざるを得ない。あるいは息抜きであり、あるいは趣味であり、それ以上のものでは毛頭ない。
そのようなことは明記するまでもないと思っていたのだが、ここにきて言葉を尽くしても尽くせない断絶があるのではと急に思うようになった。“自分では”、デタラメ言ってやがるなこいつ、しかしおもしろいところもあるとえいえばあるな、ぐらいに受け取られるのが最上級だと思っていたのだが、もしかしていろいろな意味で真に受ける人がいるのかしらいるのかしら(エコー)。であるとしてもそれは自分の意図するところではない。したがってこちらからすれば誤読ということになるが、果たしてそのような誤読にどこまでこちら(発信側)が責任を持つべきなのか。
ここでは文字によるコミュニケーション主体ゆえに、対面コミュニケーションに比べて圧倒的に情報量が少ない。自分の語り口、態度、などの情報があれば床屋談義だと言うことは伝わるだろう。リアルにおける文字コミュニケーションにおいては、編集・出版・発行の過程がテキストの信頼性に重み付けを与える。本なのか雑誌なのか新聞なのか手紙なのかビラなのかといったテキスト外の情報を受け取らずに価値判断を行うことは通常ない。無料ネットサービスで書き手不詳のここなど、自分があえて明言するまでもなくアジビラ以上の価値があるとは思えない。というようなことはもうすでに黎明期において語りつくされたことだと思っていたのだが、もしかしてそうではないのだろうか。もちろん書き手を免責するつもりはない。だがある程度webに熟達した人間にとって、リアルよりも情報量に欠けているがゆえに見えにくいが、しかしリアルと同様にテキスト外の価値判断が確かに存在しているということは、メディアリテラシーという言葉をあえて持ち出すまでもなく了解されている。そう仮定するのは、たとえはてなやblogなど比較的目新しいものに適応している人々を対象としても、危険なことであるのだろうか。
「人が人を傷つけることができると思うのは傲慢だ」というような台詞が清原なつのワンダフルライフISBN:4150307474)』にある。人が人を誤読させないようにできると思うのもまた傲慢であるというべきなのであろう。書き手は誤読を避けるよう傾注するであろうが、やはり誤読は大いにおこなわれるであろう。しかしテキストの誤読ではなく社会におけるコンテキストの誤読、書き手が自明のものとして無言の裡に引き受けている評価、そして評価と表裏一体の責任、信頼性など、テキストの枠組みに対する誤読が行われた場合、書き手としては為すすべもなく立ちつくすしかないのではないだろうか。

誘い受け

誘い受け、という文章技法がある。読み手に判断を委ねているようでありながら、その実ある特定の反応を誘起することを根底においた技法である。このような技法を修辞的に正しくはなんと表現するか、寡聞にして知らない。修辞疑問のようにも思うが、文法上の構造ではなく内容により発生するように思う。自分は反語的表現を多用するが、誘い受け、と指さされることのないよう留意している。誘い受けと疑念を抱かれることは、自分にとっては好ましいことではない。

書肆探索

久々に人文書の新刊を尋ねて書肆を巡る。数冊、気に留めていた書物を手に取り幾ばくか目を通したのち、いくつかを求める。久方ぶりに訪れてみれば、配置などにずいぶん変更があり、些か戸惑いを覚えた。書棚を散見するに、以前に比べて当該分野の出版点数は明らかに倍加しており、充実感と共に焦燥感を感じるひとときであった。本日の購入:2冊で3500円也

ふぁーすとおぴにおん せかんどおぴにおん

http://diary.note.ne.jp/d/38638/20040305.html
ネオロマンに耽溺するあまり(いかん、もどらん)、ネット巡回を欠いていたらなんか地雷日記サマ*1が理路整然たる反論をされており、光栄にもそこにいれていただいているので紹介します。地雷犬サンありがとー!*2 ちなみにこの数行の記述を読んで、地雷犬氏と自分が結託している!とか思っちゃった人はいわゆる“半世紀ROMっててください”の対象なので注意するように。*3
自分の反論はどっか下の方で書いたが、それよりこちらの方が簡潔でわかりやすいので、お前どうおもっとんじゃ!えぇ?!という方はこっち読んどいて下さい。全文同意ですので。

*1:ある種の同人誌っぽいジャーゴン

*2:しつこいがある種の同人誌っぽさ意識

*3:半世紀ROMらないでいいように説明:わたしとあなたくらいの関係しかないです

セ系と某先生と私

ある時点で某先生の某blogに対する反応を記したときには、はっきりいって自分のこととはとても思えなかった。理由は昨日からあれこれ書いているが、どう考えてもこんなとこ相手にすると思わなかったからであり、また、万が一反応されたとしてもまさか言論人がちゃぶ台返ししてくるとは思わなかったからである。したがって、種々の反論めいたことを綴ってはみたが実際のところ、ここではないどこかを相手にしていて、かつ自分が窺い知る由もないような関係性の発露として書かれたのだろうと考えていた。
しかし、一晩がたちわずかではあるが他所での反応もあり、また自分なりにwebを管見するに、どうやらこれは本当にここ(と地雷犬日記:BLOG)のことではないだろうか、と思い至るようになった。そこで糾弾されているのは当方であるという立場から、本日某記述を改めて読み返すに、いったいこれにどう言及していいのかと途方に暮れてしまった。某先生が何を怒っているのかさっぱりわからないのである。
眼目は「デマを飛ばされた」ことにあるようであるが、その「デマ」とは何を指すのかがわからない。はっきり言っておくが当方は「デマを飛ばした」つもりはない。また自分で読み返すにそう取られて当然という記述もないように思われる。もっとも書き手と読み手の思惑が重ならないのは当然のことであるから、当方にその気は全くないにしろそう読んだ方がおられることはあるかもしれない。しかし、誤読(とあえていう)された方が更に踏み込んで某先生に当方を根拠としての中傷メールを送ったのだとして、なぜその責めが当方に負わされなければならないのだろうか。某先生がまず非難すべきはメールの送り手ではないのか。そして当方はメールの送り手では絶対にない。
このような論法が可能になるならば、某先生の某著作を根拠にわかったような口を利いてうっとうしいことこの方ない人種が仮にいるとして、そのような人種がたとえば当方に喧嘩を売ってきた場合、自分が某先生に抗議することは筋違いではないということになる。当方の記述に問題があり、それを非難するなら構わない。だが某先生が用いた、非難メールの責任を当方に押しつける論法は誤りであるといわざるを得ない。読者には誤読する自由があり、また、オープンのアドレスにメールを送ることは違法ではない。
提案なのだが、オープンのアドレスをご自分で管理されないようにしてはどうだろうか?当方はハナから先生自身に見て見て!ねえ見て見て!といっているわけではないのだから、中傷メールとやらをご覧にならなければ今回のような事象は起こらなかったと思われる。下を見ていただければわかるように、当方は昨日の時点で自分の回れる範囲での某系議論は押さえ尽くしたと考えていたため、それ以上ふれる予定ではなかった。またそもそも今頃になって某系を語っていることが流行遅れ・時代遅れなのだ。幸か不幸か、某先生の某記述は絶好の燃料となったわけである。もっともお若い皆さんと違い自分は燃料をぶちこまれてかえってやる気をなくしてしまったので、ご期待に添えず不完全燃焼するのみなのだが。この騒動(とあえていう)にもしかし、得るところはあった。http://www.cute.to/~spanks/(Not a serious wound 2004.03.04)にリンクされている反応集にあるサイトを巡っていて、某系の新しい定義、また発生当時の様子を窺うことができたのは収穫であった。このような騒動を介して新しいことばがさらに伝わり、そこから発生する新しい語りに出会うことはなにものにも代え難い喜びである。
…って長々書いてるうちにまたなんかあれだったりしてないだろうな…

お笑いの話をします どうでもいいですよ♪

ですがだいたさんのはなしではありません。一日の楽しみのとあるサイトを見ていたときのこと。

おおむねつまらない漫才を45組ほど見たわけだが、ファミレスやコンビニでどうたらとか、中学校時代にこうたらっていうネタがやたらに多いね。こういうのを《キミとボク派》というんでしょうか。

これは殊能将之さんのM-1GP2002のDVDの感想なのだが、これを見ていると不思議な転倒を覚える。前にも書いたが、漫才世界で「キミ」「ボク」という代名詞は古くささの代表とされる。いとこいさんとかを思い浮かべてもらうとわかりやすい。若手の漫才師で引用にあげられるような凡庸な漫才においては、おそらくほとんどが「オレ」「オマエ」でやっているんじゃないだろうか。したがって<<キミとボク派>>というネーミングは漫才師に限っては逆のベクトルで作用する。内容はいっしょなのに。おもしろい。