ネット上の二つの事例に見る東浩紀のフツカヨイ

3月4日付けの東浩紀のblogにおける発言から、いろいろと考えていたことをまとめ、総括としたい。まず断っておかなければならないのは、自分は思想や哲学に暗く、彼の著書や理論、思想については何も語るべきことばをもたないということだ。よってこれから草する一文は、彼の理論や思想をあつかうものではない。自分は市井の文壇論壇ミーハーであるから、彼の「存在論的、郵便的」が出版された当時の話題性は知っていた。この方面にはとんと疎いので、内容については判断できない。とはいえ当時の反響の大きさ、年齢の若さから、注目に値する人が出たのだなあと思っていた。
その後、しばらくその存在を忘れていた彼を再び認識したのは、およそ一年前の「網状言論F改」の出版時のことである。自分もまた、「女性のオタクはときに“やおい”と別の名前で呼ばれている」に仰天したうちの一人だ。この時点で、自分の中に彼へのある種の不信感が生まれたことは明らかにしておくべきだろう。そう、3月4日以前のこのダイアリ内における、自分の『東浩紀』という固有名詞に対する揶揄半分の姿勢は、ほとんどこの時のインパクトによっている。彼の研究に対する、「一次資料にあたらない」「実証に緻密さを欠く」「定義が大雑把」などの批判は、この時に出尽くした感がある。そのほかにも相当批判があったようで、また彼自身もそれらの批判に辟易していたようだが、それでも彼が今なおオタクを語りたがることは興味深い。中沢新一的営業努力ではやりの現代モノを扱っているわけではないのだ。しかし逆説的ながら、彼に欠けており、また必要なのは、まさにその中沢新一的面の厚さなのではないかと思う。
内心に確たるものがあってオタクについて精力的に評論活動を続けているのに、当のオタクの一部から些末な揚げ足取りを続けられているという苛立ち。一貫して彼から感じ取れるのはこの苛立ちだ。そして時としてその苛立ちが、堰をこえてあふれ出す。http://www.hirokiazuma.com/archives/000066.htmlに見る、このダイアリを指すらしい記述は、そういうものではないのかと思う。これを、自分は「フツカヨイ」的な文章と見る。「フツカヨイ」という言葉は、坂口安吾の『不良少年とキリスト』という太宰の死を思うエッセイの中で、太宰のナルシスティックともぐだぐだとも逆上ともとれる感情の発露をさして表現したものだ。安吾は、太宰が虚弱のためにフツカヨイ的に人生を生きフツカヨイ的作品を産みだしていったことを悼んでいる。以前、このダイアリで同じように『不良少年とキリスト』をひいて、佐藤友哉を太宰になぞらえたが、あの時は半ばギャグとしてそう書いた。今は考えを改めている。『不良少年とキリスト』に見る太宰評は、佐藤ではなく東浩紀にこそあてはまる。いわく時にフツカヨイ的に赤面逆上するところ、ファンに取り巻かれるうちに舞台裏と舞台の境目が希薄になりM・C(マイ・コメジアン)になりきれなかったところ。彼は冷静な社会評論家ではない。いや、その資質は十分にありながら、冷静で緻密な評論家としてではなく、フツカヨイの中途半端なM・Cとして、その姿をファンの前に晒している。安吾は、「斜陽」に対して志賀直哉が変な敬語が多いと批判し、それに太宰が逆上したことについて、そんなところに文学のまことの問題はないのだから平気なはずなのに放っておけないのがフツカヨイだと評したが、東とオタク論客の間でのやりとりを彷彿とさせるものがある。だが東にとって不幸なことは、彼が太宰のようなフィクションに生きるのではなく、現実に立脚した哲学や評論を専門とするところだ。太宰は、できなかったけれども、そんなところに文学のまことはないと無視を決め込むことができた。評論はしかし、チャレンジに背を向けて一人紡ぐものではない。たえず論争にさらされ、切磋琢磨するものであろう。
東の言動をフツカヨイだと思うようになったきっかけは、もちろん3月4日付の彼のblogなのだが、そこから興味を抱いてネット上での彼をめぐる言論をたどっていったところ、もうひとつ、興味深い事例にあたった。それは、以前にもふれたhttp://www.hirokiazuma.com/oldinfos/diary2002.htmlにみる2002年の東浩紀公式サイトにおける近況の部分である。
中心となる事例は以下だ。長い引用になるが、それでもかなりの部分を略したのでできれば原文を参照していただきたい。

(前略) しかし実のところ、僕自身は、ネットに満ちる噂話にはうんざりしているし、迷惑もしている。とりわけ、ライター経験も編集者経験もクリエイター経験も何もないくせに、業界通を演じている若いやつには吐き気がする。 ……というのはちょっと言い過ぎかもしれないが、なぜ僕がここで怒りを表明しているかというと、問題のその書き込みをした人物(仮にY氏としておこう。彼は東大の某サークルの中心人物であり、いちおうは僕の遠い後輩にあたる)が、HPのプロフィールで「東浩紀から原稿依頼を受けたが固辞した」と仰々しく書いている困ったやつだからだ。ここに明確に記しておくが、これは嘘である。この記述は前から知っていたのだが、新海氏など巻き込んで事情通ぶり始めるとほかにも迷惑がかかりかねないので、わざわざ記しておく。 (中略) しかし、上述のY氏周辺のサークルなど、その部分だけを根拠に「東浩紀はライターとしての大人の常識が分かっていない」などと悪意ある中傷が横行しており、そのくせ書き手が何か僕と親しいかのような幻想を振りまいているので、釘を刺すことにした。ちなみに言えば、その「東浩紀部屋」で、O氏とともにいろいろ僕にイチャモンをつけていた二〇代の男性はY氏と親しい人物で、彼らの周辺では「東浩紀とやりあった」ということでヒーロー扱いらしいが(そして、なんでそんなことを僕が知っているかというと、またそのことを誇らしげに僕に伝えてくるバカがいるからなのだが)、その小さな人間関係ぶりには頭が下がる。というか、もう院生にもなる年齢だというのに、そんなんで威張っていていいわけ? 同じ大学出身として情けなくなるよ。 僕はいままで、そんな若者のお喋りも寛容に聞いてやることにしていたのだが、仕事も忙しくなってきたし、今後は無視することにした。他方で、僕の仕事を妨害する中傷には断固抗議する。最後にこれだけは言っておくが、君たちのような愚か者がいるから、オタク系の評論サイトはいつまで経っても内輪受けを超えられないのだ。そして大塚英志に嘲笑され続けるのだ。ひとのことを批判したいのなら、ちゃんとやれ。こんな言い方をすると、まるで最近の柄谷行人のようだが。

ここでの彼の苛立ちは、「東大生のY氏」と「ライターのO氏」と「二〇代の男性」の三者に直接的には向けられている。原文を参照していただければよくわかるが、これはなんともフツカヨイとしかいいようのない感情の発露だ。自分には“ライター経験も編集者経験もクリエイター経験もない*1”が、この種の悪意や事情通ぶった手合いというものが著名な人の身の回りでは珍しくないことであるとは想像できる。しかしこの書き方は、彼がうんざりしている事柄に対してのスマートな対応とは言えない。むしろ無用の混乱をよび興味本位を煽るものである。案の定、「ライターのO氏」には反撃されているし「Y氏」もまた反応している。公平を期するために、是非この両者の反応も参照いただきたい。
ところで当ダイアリへの記述の時も感じたことだが、この文章で東は誰のことを言っているのか対象を明らかにしていない。これには少し当惑する。Y氏が誰でこれがほんとのことなのか、現在から遡ってこれにつきあたった自分には甚だ疑問だったので、いろいろ調べてY氏とその反応を拾えたが、もし最初に彼の近況だけを読んだらそういう行動に出たかどうかは疑問だ。彼の近況における記述にはかなり激しい部分もあり、読者が批判対象を確認できない状態でこのような激しい記述を行うことは、あまり利口なやり方とは思えない。プロフェッショナルが素人にリンクを貼ったりするのは大人げない、とか、構ってちゃんをよろこばせるだけ、とか理由があってやっているのだろうが、それならなぜ特定の誰か・どこかをいちいち仄めかすようなことを書くのか。一言で言って下品なやり方だ。またネット上のできごとなのであれば、リンクを貼ったりトラックバックを送ったりすることは反証可能性を確保することでもあり、もし論争をするつもりなら必要な手続きだが、彼はもちろん「Y氏」や自分と論争をするつもりはなく、自身に対してデマや中傷を垂れ流す不埒な輩に抗議しているだけだから彼の中ではこういう書き方にはおそらく矛盾はないのだろう。
実はここには結構大きな問題がある。ネットの世界ではパブリックとパーソナルが連続的に存在している。彼はパブリックの立場からパーソナルな言説にたいしてクレームを付けているのだが、自分はパーソナルな表現としてここでダイアリを綴っているのであり、それに対して、素人が思いつきを書くなといわんばかりにクレームを付けてくるのはわりと危険な物言いだ。更に、当ダイアリへの批判では、「そのとばっちりでうちにメールまで来ました」と述べ、引用部分では「このことを誇らしげに僕に伝えてくるバカがいる」とある。なぜメールの送り手や誇らしげなバカを措いてこっちに矛先を向けるのか。玉石混淆がネット上の文章の特質だ。石に石だと言ってもそれは批判にならない。 あえて石をとりあげて批判するのは酔狂だが、石は石らしくそちらさまに直接関係しないよう、リンクも貼らずメールも送らずほそぼそと思ったことを書いているだけなのに、自身が主体的に越境してきて(これはネットの特質を利用しているとも言えるが)石だからやめろ、といってくるのはパブリックとパーソナルの連続性について鈍感な振る舞いだと思う。*2
とはいえ彼も、自分がここで彼に対する批判を書いたとして、それを「書くな」という権利があるとはさすがに思っていないだろう。彼が言いたいのはおそらく、「ちゃんとやれ」ということなのだが*3、なぜ自分にちゃんとやる必要があるのだろうか。断っておくが、自分はわりと「ちゃんと」やろうとしているほうだ。しかしそれはあくまで個人のこだわりであり、今現在のシステムにおいて、ネット上で物を書くには「ちゃんと」やらなければならないという縛りはない。彼が言いたいのはもしかすると、「僕に聞いて欲しいなら『ちゃんとやれ』」ということなのかもしれない。いや、もしかするとどころではなくこちら解釈のほうが彼の言いたいことを捉えているだろう。だが、別に自分は彼に聞いて欲しいとはこれっぽっちも思っていなかった。*4彼に文章を送っていたと彼が言うY氏については、必ずしもそうではないかもしれない。だがY氏の話からはじまって、最後はオタク評論サイトの話に展開する彼の文章では、Y氏と彼の関係性を、彼がうんざりしているというその手のもの全般と彼の関係性に勝手に敷衍しているような印象を受ける。なるほどY氏は彼に文章を見てもらいたかったのだろう。しかし、オタク評論サイトとやらがそれを望んでいるとなぜ思えるのか。
以下に並べて引用する文章は、前掲の「近況」の次に書かれたものと、先日当方らしきところが受けた批判の一部である。

(前略)サブカルチャーの世界は狭い。コミック業界、アニメ業界、ゲーム業界、広いようだが、評論など書きそうな人物はどう考えても数百人しかいない。高校の一学年ていどの人数だ。そしてその人々が、担当編集者やらライターやらサークルの先輩後輩やらアルバイトやら、これまた狭い人間関係のなかでぎっしり繋がり合っている。このような集団のなかで、だれかの執拗な批判をしていれば、必ず実名や経歴がバレる。上に記したように、僕は確かにオタクではないかもしれない。雑誌を主な活動の舞台にしているし、日記サイトなんて読んでいないように見えるかもしれない。でもそれでも、やはりいろいろ聞こえてくる。ときにはクローズドなMLや掲示板の情報まで伝わってくる。現在ネットで活動しており、今後、何らかの意味で物書きになりたいひとたちは、そういうことを覚悟しておくべきだと思う。(後略)

(前略)というか、だれだか知らないけど(ということにしとくけど)、ひとの悪口を書くときは、それくらい調べましょう。前にも言ったことがあるけど、そういうひとがいるからネットはなめられる。Google使えば評論書けると思ったら大間違いです。(後略)

並べてみるとよくわかるが、どうも東は自身に対する批判をワナビーのものだと思っているようなのだ。もっといえばワナビールサンチマンだというくらいに思っているのではとすら感じる。おそらく、自分がどれほど言を尽くして、自分はワナビーではないし趣味として論壇文壇ネット言論ミーハーをやっているだけだと言っても通じないだろう。Y氏に比べそういう気配のない当ダイアリを見ても(厳密に言えば見たのかどうかわからないが)、「Google使えば評論書けると思ったら大間違いです。」と言ってくるのだから。
もし彼が本当に自身に対する批判をワナビーのものだと思っているのならしかし、これはネットフレーミングどころではなく、彼の評論活動にとって致命的である。プロになりたいわけではなく趣味の表現活動として評論めいたことをやってみる。こういう姿勢を理解できなくて、果たしてオタクを理解できるのだろうか。同人漫画家や同人ゲーム作家のことを、全員がワナビーだと思っているのだろうか。同人誌業界を既存のルートをはずれた新しいメジャー作品・作家の供給源とだけ思っているなら、足元をすくわれるのではないかと思う。
だが最初にも述べたように、自分には彼の仕事を云々するつもりはない。ただ彼のフツカヨイぶりを残念に思う。彼の仕事が如何に素晴らしいものであれ、ここにあげた二つの事例に見えるようなフツカヨイ的言動は彼の値打ちを下げる。批判が多い彼ではあるが、同時に熱狂的とも見えるファンもついている。確かに彼には魅力がある。正直に告白するなら、自分も3月4日以来彼のことを折りにふれ考えてしまっていた。彼には何か、一言言いたくなる魅力があるのだ。安吾によれば太宰のフツカヨイには熱心なファンの存在が大きかったという。彼はファンの陥穽から逃れられるだろうか。彼と彼らが、安吾が言うような関係ではないことを祈る。そして、彼と彼の知性と彼の仕事のために、彼のフツカヨイぶりを惜しむ。

*1:ところで「クリエイター」の定義がまた不鮮明だ。ここで批判されているY氏などは文中から読みとれる限り評論を発表したりしているわけで、それがたとえ同人誌であっても「クリエイター」なんじゃないかと自分なんかは思うのだが。

*2:もっともこのあたり、webが公共空間なのかどうかについては「儀礼的無関心」を始めいくつかの立場表明があるが、面白いトピックスであるので掘り下げて論じられるべき点だ

*3:彼自身が、前掲の文章中では全然「ちゃんと」やってない、というつっこみはひとまずおく

*4:今もそれほど思っていないが、前よりは興味がある