夜更かししていて朝になった

つけっぱなしのテレビで、手話通訳付きの番組が流れているので、福祉系かなーと思ってチャンネルを変えようとすると、メガネで坊主で痩せた男性が「男は女と違って〜」とか男女のことば(のつかいかたのちがい)についてしゃべっている。30秒ほど横目で眺めてアレ?と思って、テレビ番組表を確かめると、あらやっぱり桝野浩一氏であった。テレビ寺子屋って番組らしい。また日曜の早朝からわけのわからん番組やってるなととても感心する。個人的印象だが、新進歌人としてふつうにフィーチャーされていた時代より、離婚前後の愚痴愚痴言ってる桝野氏のほうが結構好きだ。こないだもなんかの雑誌で離婚対談していて離婚の際の悲しさを語っておられた。えー、さすがにもう結構時間たってるんちゃうんー、と思ったがやっぱり面白かった。あれだけ一つのことをぐじぐじ言い続けると、なんかもうそれは文学だなあ。
あ、終わった。番組パーソナリティーの人のシメのことばが、「今日は思いがけず素敵な短歌の授業になりました。ありがとうございました。」だった。ひでー。歌人よんどいて“思いがけず”ってアンタ。うーん早朝ブラックボックス。さて寝るか。

オーラ

なんかブログにはオーラがあるような気がする。中身の面白さとかもさることながら、オーラのある/ないがブログとしての人気度をあげているような。テキストサイトにもあったけど、それよりさらにでかい感じがする。コメントとかTBとかで場の雰囲気が形成されやすいからだろうか…というようなことを久々に木村剛ブログをみておもった。オーラ、なくなっちゃったなあ。中身はあんまり変わってないのに。でもスーパーノヴァみたいに炎上中・落城前のブログが一番オーラを放ってるのかもしれない。

読まずに批判するかまやつ女、あるいは読む前に期待するかまやつ女

といってもサンデー毎日はよんだので(あ、あとカルチャーレポートと)「ちょっと読んだだけで批判しちゃうかまやつ女」が正解だけど。本が出たことでもう一度考えると、著者の言いたいこと、すなわち社会における女性の生き方戦略とか、女性の階層格差とかそういうあたりはわからんわけではないしそういう社会時評は必要だと思うけれど、アイコンが「かまやつ」というのがどうにもこうにも納得がいかない。かまやつ女以後、意識するようになった三浦展氏だけれど、「ファスト風土化」にジャスコをもってくるのはなるほどなあと思っただけに、かまやつ女のすっとばしぶりには首を傾げざるを得ない。誤解を恐れずに言えば、この手の時評の値打ちはアイコン選択の絶妙さにあると思う。したがって内容の良し悪しに関係ないからといってアイコン選びの見当外れぶりを看過するべきではないだろう。
あともう一つどーしても気になっているのが、「六條女はどこへ?」ということである。サンデー毎日初出時には「かまやつ女かまやつ女にたいして「六條女」っていうのがあったのです。で、もともと 六條女はなんかあやしい気配がしたわけで、ワタクシなんぞはとかく噂があった六條華さんの背後関係がオヤジ雑誌サンデー毎日サイドに押し込んだんじゃないかと想像していたわけだが、そうではなくて六條女は三浦氏自身の発案によるものだという*1。ご存じのようについ先日、六條華という存在はゲシュタルト崩壊して、新しい名前で出直したと言えばそうなのだが、見ている側にとってはワケワカラン状態になっている*2。さてこのような現状に対して、かまやつ女本は「六條女」というアイコンをどう処理しているのだろうか−−って書評やレビューを見る限りでは出てないっぽいなあ。こういうのがまた萎えるんだよね。アイコンを乱発して観測気球を上げては当たったやつだけ残してるんじゃないかと勘繰ってしまうに。