創作/批評/権威

遅い返事 - hoge
↑のエントリと、その書かれる元となったエントリ、コメント、返信など一連のやり取りを興味深く読んだ。
ざっくりいえば、「批評」をどう楽しんだらいいか、という話かと。自分はfirstheavenさんの「批評は批評というひとつの創作」という感覚に近いものをおぼえる。自分なりの言葉で言えば、「世界の新たな見方を教えてくれる」のが批評の面白い/そそられる点である。既知のなにかを批評家という存在が腑分けして並べなおして見せてくれたり、もやもやとしていたものをすくいとってきれいに整理してくれるのは快い体験だ。なので創作としての批評読みとしては、「あ!」、「なるほど!」をもたらさない批評は駄批評だとおもう。
一方、Erlkonigさんが批評が権威化してしまって、批評家が評価する作品=絶対的に正しい作品というムードが醸成されるのがいや、というのも大変よくわかる。よそからやってきて、人が機嫌よく楽しんでるものについてやいやい言われるのは、ほんとにイィィィーッ!としますからね。
というわけで、どちらの思考もふむふむと思いつつ感想2点。
まずは東先生問題。Erlkonigさんには東先生のイメージが強そう。自分も東先生にはたいがいアレなので、権威主義的イメージをもつ批評家として例に出るという流れは大変よくわかる(笑。ただ、先生はよく言えば親分肌、悪く言えば手下を作りたがる/徒党を組みたがる特性があると観察しているので、権威主義的に感じられる振舞いは個人のパーソナリティに依拠しているのではないかと思っている。要するに当ダイアリでは、あの上下関係な感じというのは東先生ならではの芸風という理解に落ち着いている。なのであんまり東先生を例に挙げてしまうと、意図するところがずれてつたわる可能性があるかもしれない。ポテトチップスの例に、うすしおやのりしおではなくて、本わさび味みたいな(よけいにわからん)。
ちなみに「徒党を組む」こと自体は悪いと思ってないですよ。サークルで切磋琢磨して高まるのはよいことです。内輪受けになるといやですけどね。
つぎに、「権威」のとらえ方の問題。自分はいわゆる理系の出で、自然科学的教育を受けて大きくなってきたところに、諸般の事情で人文科学畑のひととつきあうようになったのだが、最初の頃どうも勝手がちがって気持ち悪かった原因がこの「権威」のとらえ方にあった。なんかねえ、人文系の論文とかって「論説」が載ってるもので、「事実」がのってるわけじゃないらしいよ。
「理系の人がなんで論文にこだわるのかと思ってたけど、理系の人は論文に書いてあることは正しいと思ってるんだね」
といわれて、ひっくりかえったことがある。
どういうことかというと。自然科学畑で教育を受けるとと、学会なり学術雑誌なりの権威ある媒体に発表された内容は、「事実」だという感覚がある。もちろん新しい検証によって覆される可能性は常にあるのだが、それでも発表された内容には再現性と検証可能性があり、研究者の立場や主義主張を問わず等しく観測される事実であるのがふつうである。なので、発表された内容にはそういうものとして取り扱われる*1
ところが人文系の分野だとそうじゃないらしい。個々の研究者が、俺はこう考えるぜ!ということを表現するのが論文みたい。そんで、いや俺はそう思わないぜ!という論文が出たり、俺は支持するぜ!という論文がでるみたい。hiphopグループの抗争みたいだな。
というわけで、育ちが原因で、発表された論説にはその内容に権威を感じてしまっていたのだが、人文系の論文でオーソライズされているのは、ちゃんと情報を蓄積しルールに則ってきちんと書かれているという点であって、論説の内容自体は不変の真理でもなんでもないということを理解するまでに時間がかかったのでした。
厳密には批評家と研究者は同値ではないだろうけど、「ちゃんとした批評」というのは手続き論であるべきであって、論説はいろいろあって当然と考えれば、いたずらに批評に惑わされないのではないかと思います。

*1:厳密に言えば、進化など再現性を確保できない領域もある