問題の所在を考える

人格批判と言説批判は厳密にわけられるべきで、できればどちらを批判しているかを明らかにするべきだ。また、言説に対する批判を人間関係にもちこんではいけない。言説を批判されても仲良くつきあうことは出来る。というか仲良くつきあうことと意見が合うことはまた別のことだ。
自分は主に言説にあたっているつもりだ。というか人格なんてしらないのでどうしようもない。遺恨についても感知しない。歴史的経緯は議論の枠組みや関係の理解には重要だが、ある特定の事象には是々非々で当たりたいと思う。再現性と反証可能性を確保するため、ソースを提示しない批判はしないし、教化はしない。事実と自分の考えが弁別しにくいような記述は避けるし、わからないことはわからないと書き、証拠不十分なときは留保をつける。
自分には言いたいことがあるからそれを補強するべく証拠を集める。そしてその証拠は出来る限り提示する。したがって読者は証拠を同じように手にとって、自分の表現に対して判断を下すことが出来る。ある証拠を扱わない、という作為については難しい。自分が知らないだけなら教えてもらって、改訂することが出来る。悪意を持ってある証拠を無視している場合は、読者にはわりとどうしようもない。しかし読者がたとえば自分の記述にリンクを貼って批判することは出来る。それにどう対峙するかは、読者にとって判断の材料になるだろう。もっとも職業言論人ではないので幾分かは割り引いて考えられたいと思っている。その代わりに、誰にも顧みられず、webの大海に浮かぶ墓標のようになるかもしれない。責任と読まれ具合はトレードオフだと考えている。
さてこのような前提がとりうる責任範囲だと考えるのだがどうだろうか。引用における相互関係の問題はここには入らない。なにかの文章を引いたとき、その文章の規定する関係性に巻き込まれることは十分にある。しかし、そのリスクと引用することのベネフィットを秤にかけて、ベネフィットが大きければおそらく引用するだろう。リスク/ベネフィットの見積もりが人によって異なる、という問題はある。しかし、リスク0でなければ引用しないのが責任なのだろうか。そう考える向きもあろう。しかし自分は、人格批判と言説批判を混在させている/ソースを提示していない/再現性と反証可能性が保証される努力がなされていない、などは明らかに無責任な文章だと考えるが、損益(あるいは危険・安全)分岐点をどこに設けるか個々の感性の問題であると考える。見誤ってリスクをかぶることになってもいたしかたない。このあたり、自分がリスクに鷹揚なのは、職業言論人でなくハンドルネームの存在であるためである。それはしかし上述したようにポジティブな評価の割引でトレードオフされるだろう(職業的言論人でも、喧嘩屋みたいな感じで注目を集める効果もあるので必ずしもリスクだけがあるというわけではないだろう)。責任範囲の設定には実は統一した基準はない。自分が考える範囲は上述の如しであるとしか言いようがない。多様な責任範囲に基づいて、いろいろな文章が乱立すること自体がが健全性の現れだと思っている。