テレビで映画を観ていた

戦火の勇気」というやつ。いろいろ考える。やっぱ真実追求するのは黒人士官だよな、とか、黒人兵士の犯した卑劣な戦争犯罪を白人士官が追及する映画ってできるのかな、とか、今ではこんなのアメリカで放映できないだろうな、とかまあいろいろ。しかし一番思うことは、自分は戦争反対だし戦争は悪だし先の大戦については戦後教育らしい嫌悪を感じるので靖国神社問題にはちょっと忌避感を感じてしまうが、それはともかく国家の権威の下に戦死者を慰藉する行事や施設は必要だよなあということだ。
“お国の為に”死ねといわれても困るしできれば御免頂きたいが、そういう大義に共感を覚える人がいるのはわかる。わかるけれどもこちらまで強要しないで頂きたいのだが、その手の方々は強要しがちなのでちょと困る。そういう自分の事情もさることながら、身近の年寄りなどを見ていると、やはり靖国神社の存在は大きいようだ。当時はやはり大義で人々を駆り立てていたのだから、戦後いきなり、ハイあれ間違いでした戦争ダメダメ、みたいなこと言われても死者への思いをどこへもっていっていいかわからなくなる。慰藉の施設として、戦争を経験した人の中に靖国神社はやはり偉大な存在であり、ことすべて終わってから時代は変わった、靖国はだめ、やっぱり千鳥ヶ淵、なんていってもだめなのだ。靖国で会おう、とかいって別れる光景も戦争物にはよく見られますよね。
とはいえ昔と違い、国教たる宗教もなく、政教分離・信教の自由の世の中で、やはり靖国という神社で慰霊するというのは、やはりいろいろと不都合に思う。その辺、すでに千鳥ヶ淵墓苑ができたときに議論はなされている。→千鳥ヶ淵戦没者墓苑の建設経緯 なのでここはやはり党利党略を超えて、千鳥ヶ淵をアーリントンのように重要な施設にするべきだし、ブッシュなどが来たときには表敬させるべきだ。
イラク自衛隊員が死んだらどうするのだろう。日本の世間には、「そんなこというもんじゃありません」文化とでもいうものがあり、事前に不幸な結末を予想することは忌まれる。しかし、今回のイラク派兵をめぐる報道で、自分はいつももしこの中に殉職者が出たらどうするつもりなんだろう、とかねがね思っていた。千鳥ヶ淵墓苑は、靖国神社ほど強烈なカリスマを持っていない。果たしてそれで、慰霊の施設として有効なのだろうか。本人らがどう思っているかはわからないが、日本が国際社会へのプレゼンスを示すための派兵なのだし、それはやはり、お国のためなのだろう。殉職者には国家による慰めが与えられるべきだ。
このあたりの事情の不備を見ると、やはり派兵はまだ早かったなあと思う。社会が戦死者をどううけいれていいのか、その準備はとても十分にできているとは思えない。ごまかしを放置し続けていたつけが、命令に背くことができない公務員末端に回されるなんて不幸な話だ。軍の軍事行動による死者には、国家の慰藉が不可欠だ。それは軍隊が必要かとか、日本が再軍備するかとかそういう話とはおそらく別のことなのだ。保険金や報償金だせばいいってもんじゃないですぜ。
追記)靖国はキーワードなのに千鳥ヶ淵はキーワードじゃないねえ。