書き手の自称の問題

めちゃくちゃどうでもいいことだろうけど、下で引いた佐藤心の論文、単著なのに「私たち」でずっと書かれているのはどういうことなわけ?
書き手の自称については、わりといつもひっかかるので、今までにもいろいろ書いてきたけど、たとえばファウストのインタビューで「編集部」がインタビューしてるのに文中の自称が「僕は〜」だったりすることについて、気持ち悪いと思う感覚を改めるつもりはないとしても、ニューウェーブなのかなと譲ることはできるけど、単著の論文で「私たち」はやっぱおかしくない?それともこういうのって人文系ではよくある修辞技法なの?よくあることだとしたら、どういう意味があるの?なんか了解はあるの?私たち、には誰が含まれていると理解するのが一般的?読者と筆者?いやでも前号買ってない自分のような読者は面食らうよ。
昔、斉藤美奈子がなんかの文芸評論で、一人称が「僕」の作品群をとりあげて「僕、僕、言ってんじゃねえよ!」みたいなつっこみをしていた記憶があるけど、評論とか記事とかの自称で「私」とか不定称を使わないのってなんなんでしょうか。わからん。
*この話、3/28日分に続き書きました。
追記:よく考えたら一般的な言葉でもなさそうなので補足。「単著」っていうのは著者が一人の文章と言うことです。著者が複数だと「共著」になります。