借景

最近のライトノベルまわりはなにかと難しい。別にあえて“最近の”と冠をつけるほどのこともないのかもしれないが、引用とメタファーに満ち溢れた小説は、こちらのわかりたい心をくすぐってくるので非常に疲れる。もちろん、先行作品の引用を行っていても、それを知らなくて理解できないことはない。筋を楽しむのは純粋にできる。ところが読む側のこちらの妙なわかりたい心と中途半端なデータベースがあるので、なんとももやもやとするのである。
歌舞伎とかってこういう感じだったのかなと思う。それから京極夏彦らがやっている石燕の「画図百鬼夜行」謎解きもそういう感じ。時がたち、同時代的な作品が時の洗礼を乗り越えられずただそれのみが残ったら、このような楽しみ方は失われるだろう。
ここで想定している最近のライトノベルまわりとは、端的にいえば西尾維新である。ミステリだろ、ライトノベルじゃない、といわれればまあそうなんですけど。
しかし、西尾維新の、特に戯言シリーズがどれだけの引用で成り立っているか、読んでいて正直眩暈がしてくる。しかも本体のおはなしも面白いのだから始末に終えない。自分はいつも、一冊の中のお話→シリーズその他との関連→背後にあるらしき大きな物語→キャラ萌えの階層順で読んでいるが、これにさらに枝葉末節の引用を読み解いていくとなると、どんだけのデータ量なんだと途方にくれる。小説が一冊で完結せず、未だ明かされざる長大な物語の一部、というふうに存在するのは、ブギーポップとか京極堂シリーズとかいろいろ類例があるが、戯言シリーズでほのめかされる手がかりの量は尋常ではない。そう、実際の物語の問題ではなく、「ほのめかし」の量の点で、戯言シリーズは異様だ。さらにそこに、ジョジョからの引用やらブギーポップへのオマージュやら放り込まれるとまったくもって途方にくれる。それを言語化している西尾維新は異常な書き手だと思う。戯言以外でも、以前も書いたけれど、西尾の「きみとぼくの壊れた世界」の世界観はものすごくブギーポップと似ている。こっちを先に読んだ自分には、ブギーポップを読んだとき、大変な既視感をおぼえたくらいだ。
あとわりと誰も言及しないんだけど、西尾維新はあとがきが異常。新井素子的異常さ。つまり本編がどれほどスペクタクルで一大活劇でもあとがきは作者本人の素(に見える)しゃべり。西尾維新で一番びびったのはあとがきだといっても過言ではない。あとがきをどういう風に書くか、というのはなかなか悩ましい点なんじゃないかと思う。個人的には法月倫太郎のあとがきがすきだ、というのはおいといて。西尾のあとがきはあっさりしていて特に物語について触れない。ああいう本編を書く人がああいうあとがきを書くという異様なギャップをつっこんだ創作論聞いてみてほしいなと。