志村貴子の閉塞と奇妙な明るさ

http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20040506#p1 から連想。
たしかに「放浪息子」にはちょっとこういういただけないところがあるのですね。「敷居の住人」「ラヴ・バズ」好きの志村ファンとしては、lepantohさんがこういう風に論じるのはよくわかる、と思いつつも忸怩たる思いであります。私見ですが、「蹴りたい背中」ってあらすじだけ聞いたら「敷居の住人かよ!」と思いました、なんて今関係ないですけど、なんつーかその、志村貴子作品の主要テーマにはわたしたち/わたしたち以外という世界のくくりがまずあるように思います。そのあとに、わたしたちの内部の齟齬の物語がくる。そんでそういう自他区切りを「放浪息子」では性的同一性混乱に求めたんだろうなと自分は読みました。なのでそんなことにTGを不用意な手つきで使うなよ、という批判はあって当然で、自分も「敷居」に比べて読む気が起こらないし人に勧めたくないなと思います。「ラヴ・バズ」はとっても面白いのでお勧め。
それはさておき、今回、このlepantohさんの論を読んでまず思ったのは、今月号読んだらどう思われるんだろうなーってことです。コミックビーム。今のところ第一巻をごらんになっただけのようなんですが、どうもその、今月号はもう一段にえぐいことになっています。リアルワールドにおける性自認の混乱というのは、器質的な問題と考えるくせが自分にはあって、それはすなわち、そういう風に生まれついたことは大変でしたねだけどボタンが掛け違ってるだけで我々と一緒ですよね、という受け取り方だと考えています。しかしこの「放浪息子」のひとたちの性と性意識の混乱は、そういう生物学的災難というようなリアルな問題ではなくて、社会に対して閉じている自意識の発露、というふうに受け取れます。今月号はそういう感覚に最後の一押しされたって感じです。
勿体つけてるわけではなくて、立ち読みした上にネタバレするのも憚られる、という気分だけなんですが、といいながらネタバレしますと、今月号の最終ページは女装した自分を思い浮かべて夢精?(まだ寝ていない状態だが自発的ではない射精)する二鳥くんなのでした。自分はここを立ち読んだとき、肩ががっくり落ちる感じでありました。えぐい。
これって結局、貴方自分が好きなだけなのでは?、と解釈したのですが、どうなんでしょうか。それを志村のあの淡々とした線、カワイイ絵柄、さらに無邪気なその他人物の造形で描かれると、なんだこの奇妙な明るさはと思います。閉塞の中の明るさは、「敷居」では出口無きうだうだする鬱な日常において一筋の光明というか若者の生命の本質的な強さのように思えたのですが、「放浪」では主人公らの閉塞のグロテスクさを際立たせる効果に思えます。
放浪息子」に、なんでこんなことなっちゃったかなあと頭を抱えていた「敷居」好きのたわごとでした。(こそこそ追記:やっぱり好きなところとか、ああいいなあと思う描写も多いので、こういう腰の砕けた表現になっちゃうんですね)