たとえばのはなし

もし身近に西尾維新を読んで新本格って何?とか言う人がいたら、自分ならまず島田荘司をすすめてしまうと思います。それからおもむろに綾辻へと導き、徐々に有栖とかのりりんとか山口とかへと歩みを進め、そしてメフィスト賞へと導きたい。竹本・笠井をどのタイミングで紹介するかも悩ましいところです。この辺を過ぎてのち、本格風味を好みそうなら次は鮎哲とかへ。幻想風味なら虚無などへ。場合によってはバカミスも紹介しなくてはいけません。また好みがなんであれ、都筑・泡坂は自分が好きなので当然マストです。あ、海外はどうしよう。とりあえずクイーンとクリスティーは押さえてから、その先はいろいろと。特にあまりにも有名なアレやアレはなるべく初期に紹介するのが親切だし…
とかとか、まあ妄想はふくらむわけですね。これが100%お節介・独りよがりであることは、さすがに自分でもわかっています。けれどもそれでもやっぱり、○○を読むならまず××を、と言いたくなってしまうんです。自由に読んで構わないし、どう読んだってたいていの場合やっぱり名作は面白いんだけど、そんなことじゅーーぶん分かっているけれども、言いたいんです、「まずは、」で始まるフレーズを。順序を説くこと自体がオタクだと言われる可能性もあるでしょうが、自分としてはオタクぶりを誇示しようとしているのではなくて、純粋な伝道の気持ちでしかないんです。世の中にこんなに面白い本があるということを知りながら教えてあげないのは、意地悪だと思ってしまうわけです。とはいえ理性は一応あるので、読書が好きじゃない人とか明らかに好みがちがう人にそうは振る舞いません。でも西尾維新まで来たらあとちょっとじゃないですか!!もうソコまで来てるのに、島荘教えないなんて人道にもとるんじゃないでしょうか。きっと自分は召命されてるんですよ、ミステリ伝道の為に。って勝手にその気なだけなんですけど。
身の回りに語り合う仲間を増やしたいという気持ちも当然あります。だから親しい人にほど、本当は読ませたい。けれど同志がいないことにもう慣れてしまっていて、こっち方向には期待しない癖もついているので、あまり切実な欲求ではない。むしろ一人で伝道手順をぐふふと考えるのは、中学生の頃、自分ベストミュージックテープをつくっていた気持ちに近いです。ああ、あの頃無理矢理ベストテープをプレゼントしたように、自分ベスト短編集とか自分叢書をつくって誰かに無理矢理読ませたいなあ。
評論や読書の行為そのものにこういう手続きが必要ではないのですから、作品論や作品単体の楽しみというのは当然あると思います。しかし、なにかこうある作品へ行くためにとるべき手続きというのが自分の中には確固としてあるのです。好意的に解釈すれば、作品を体系的に理解するとか背景の広がりを押さえてということになるのでしょうが、実際にはこういうこだわりはもう儀式というか儀礼というか呪術というかそういうものなのです。島荘読まずして綾辻読むなかれ。ああわざわいだわざわいだ、○○読まずに××読むとは、という気持ち。だからそういう流れを無視して振る舞うことに、不吉さを感じているのかもしれません。こう、国生みでイザナミが先に声をかけたら失敗したじゃん!というような不安。このアナロジーでいくと、「〈ファウスト〉から新本格を辿る」というのは、黄泉平坂を越えて世界を見に行ってるみたいな印象ですかねえ。って、えっと、話ひろげすぎですね。
ところでこの「相手の迷惑かえりみず、○○ならばまず××をと言いたくなってしまう」という性について、たしか岡田斗司夫がどこかでうまく書いていたと思うんですけど、ご存じありませんか?テレビブロスのコラムだったかと思って、サイトで公開されているのを読み返しましたが見つかりませんでした。もう狂おしいばかりに同調する文章だったので、本当はそれにリンクを貼って終わりにしたかったんですが。本題からそれますが、岡田斗司夫の言説には何かと批判もありますが、少なくとも「そうそう!」と言いたくなるような事象をうまくすくい上げて表現し、それを人目に触れるようにしたという功績は大きいんじゃないかと思います。やっぱり、「そうそう!」とか「くぅー、そうくるかー」というような体験は得難いですよ。