ふて腐れつつ身も蓋もなさを考える

3時間くらいかけて書いた渾身の記述が、ふっとんだのでふて腐れる。大した内容じゃないうえに、ここに書くくらいで3時間かけたり渾身だったりするのもどうかと思うが、それにしても頑張った自分が勿体ないので手短に再現する。
「この世で一番高いモノ:税理士編【その3】 名誉の巻(さて次の企画は)」
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050117#p1
このエントリを見て興味を抱いたのだが、日本では金銭的成功を「徳」に変換する仕組みが確かに少ないなあと。otokinokiさんは一般的な仕組みが存在しないことから、金銭的成功の次に名誉を求めてすっころぶ人や、名誉を付与する産業について考察されているのだが、自分はむしろ、ちょっと前までは「金銭的に成功すれば徳なんてどうでもいい(あとからついてくる)」みたいなフレーズは表向きに言うことじゃなかったんじゃないの?という風に気になった。その例としてはやはり古き良き伝統を伝える美味しんぼに出てくる数々の社長。美味しんぼでは味というのは大抵人情とか手間暇とかに置換されて、金銭では代替できないことになっている。成り上がりのいいやつは大抵、美味に託された人の心がわかったり、本当の美味=表面的ではないものごとの実質がわかることになっている。「金の使い方を分かっているケチ」とか「社長の地位を捨ててもトウモロコシ焼きの屋台を引こう」とか「お父ちゃんの買ってくる今川焼きが再校のデザート」とか。あ、最後のは味いちもんめだ。対して味がわからないやつは必ず酷い目にあう。お金はあるけど友達はいない寂しい暮らしをしているなどは序の口で、おそろしいことに味が分からないために商談や事業まで失敗したりする。このような予定調和世界を見ていると、堀江貴文的身も蓋もなさというのは、ちょっと前までは堂々というこっちゃなかったんじゃないかと思う。かの存在に結実するまでに社会にはどういう変化があったのだろうか。内需拡大、とか、バブル、とかが根幹か?
そこで連想は堀江社長的身も蓋もなさへとすすむ。
ひろゆきライブドア社長の共通項って?(佐々木俊尚の「ITジャーナル」)」
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/5ce555962d2fecb9531d1a44535dcf18
「(エロ本編集者の憂鬱と希望)」
http://d.hatena.ne.jp/erohen/20050117
後者の引用文中にある「アメリカではワン・オブ・ゼムだけど日本ではオンリー・ワン」という言には、乙武さんも似たようなこと言ってたなあという印象。したがってひろゆきさん、堀江さん、乙武さんはなんか似てる気がするなあと。
で、彼らに共通する身も蓋もなさというか、古き良き浪花節世界からの乖離というのは、個の自立という意味では貴重なことだと思うけれど、どうも身の回りを見ているとみんながみんな彼らのような身も蓋もなさを貫ける強さがあるとは思えない。身も蓋もないっていうのはしんどい社会だ。なので、個を抑圧せず群れを否定しないという中間的な、あるいは生き方の多様性がある社会が自分にとっては理想に思える。で、そういう社会を推進するためには、生き方の多様性を保全するような社会制度を支持することが重要なのだろうけど、そのウラで、堀江さんとかがすっぱり否定されるというのもひとつだなあ思う。けど身も蓋もない人はそれ故の強靱さがあるので、中途半端に対抗するとどうもうまくいかない。プロ野球新設騒動などはその典型。単なる身も蓋もなさにくらべて、ダブル・スタンダードの身も蓋もなさというのは醜悪きわまりない。だから同じくらい単純に「世の中は金じゃない、徳だ」ということを主張できる人じゃないとうまく対抗できないだろうけど、60代くらいで虚心坦懐にそういうことを口に出来る社会的に成功した人ってちょっと思いつかないなあ。そう考えると尊敬できる大人の少ない時代ですね。
というわけで広い範囲で共有できる道徳というのは、現代ではなかなか構築しにくそうだけれど、やっぱり個人的には身も蓋もない言説がいいとは思えないので、「世の中金じゃないよ」と少なくとも自分一人でも信じて過ごそうと思った。暗いと不平を言うよりも、進んで明かりをつける気持ちで。ところで「=金」というフレームで言うと、最近、経済学の分野では金銭評価が難しいものをいかに扱うかという工夫が進んでいる印象を受ける。そういう工夫を援用すると、もうちょっと楽に「世の中金じゃないよ」と言えるかな、と期待。