日本語はラップに剥いてない問題

剥いてないじゃなくて向いてない。そこここで最近話題になってるこのネタだけど、まとめつきの記事が出たのでようやく全貌がわかった。
日本語ラップ問題と音節構造[絵文録ことのは]2005/06/29
もめごと的興味はさておき、どの説にも見るべきところがあるように思うので、ふーんとおにぎりせんべいを食べながら読むわけだが、ラップじゃないけど「●●語は○○に向いてない」話題なんだからMAGMAとコバイア語の話がでてもいいのになー。向いてないならつくっちゃえばいいじゃん、ってかっこいいアプローチなのに。
でもさ、MAGMAを初めて知った時に、クリスチャン・ヴァンデが「フランス語は音楽に向いてないから」コバイア語をつくったっていうのを聞いて、不審に思ったんだよね。高校の選択授業「音楽」の先生が声楽家だったんだけど、「日本語は発音時にのどに負担がかかるので歌に向いてない、一番向いてるのはフランス語」って言ってたからさー。その当時は、なるほどシャンソンなどはつぶやいているようで歌っているようにきこえるな、とか思ってたんだけど。のどに負担が、っていうのと、音楽に乗る乗らないっていうのは、言葉に求めてる機能が違うせいなのかなあ。音楽の先生が適当ぶっこいてただけかもしれんが。あと言葉が意味を乗せてるか乗せてないかって問題もあるな。
それからこのダイアリでもなんべんか書いたけど、日本語って言うのはよその言語の単語だけをすぽっといれられるようになってるらしいよ。高島俊男先生の受け売りですけど。そんで今でも日本人は、かっこつけた文章を書こうとすると漢語を多用しちゃうんだって。「正しい発音では韻をふめない」っていうより、「正常な発音で押韻することは不可能だ」っていうほうがかっこついてると感じちゃうし、平安時代の男文章(公文書)が漢文で女文章(私文書)がやまとことばなのと、質的にはあんまり変わってないわけなーっておもう。で、このもめ事の発端の文章*1を読んでいたら、漢語を多用してあるんだよなあ。それでなんで漢語がOKで外来語がアウトという感覚になるのか。自分には不思議だ。これはヤマト国粋主義ではなくて、文章を書く際に漢語と和語を織り交ぜることでトーンを加減するなら、カタカナ語・外来語が文中に入ること自体は日本語にとってそう不自然でないという理解に至ると思うわけ。だから外来語で押韻していることそれ自体は不自然とは感じないはずなんだけどなー。「日本語ラップ」の指す「日本語」の姿がようわからん、と思ったのでした。