宗教に間するリアクションは判断しにくい

宗教団体はみんな危険だ。創価も危険だし立正も危険だし天理も危険だ。っていうと新宗教だけだと思うでしょうが、危険ではなく気味悪さみたいなものはもっと広くあって、カトリックも気味悪いし神道も気味悪い。そういうわけで落ち着いて考えてみれば、「オウム信者キモイ」という感覚を持つ人は、宗教団体に帰依する人一般への気味悪さを感じているのでは?と思うのだがどうだろうか。
犯罪者集団だというが信仰の下に一線を超えるというのはきっとよくあることで、古今東西世界にあまねく宗教戦争の現実を見ていると、人間の心にはそういうスイッチがあるのだなあという思いがする。いつ自分や自分の好きな人たちがそのスイッチを入れてしまうのだろうかと怖くなる。特定団体をおそれるというよりは、そう言うスイッチを入れてしまう「信仰」という心理状態が怖い。
こういう「信仰ってこわいね」という気持ちは自分が、複数の宗教がバランスして均衡しているがゆえの、無宗教状態に近い風土で育ったせいで醸成されたものなのだろうか。寺に行けば心が落ち着くし、神社に行くと清浄な気持ちになるし、超越的存在はあると思うが、特定の宗旨を心の支えとして持たない。そういう生活だからこう思ってしまうんだろうか。
というわけで「オウムが怖い」って言うのは「何かを強く信じているがために社会常識を超えちゃう人一般が気味悪い」という意味と解釈していたのだけれど、オウムというだけで何を言ってもいいと思ってる人も多いみたいだなあ。叩きの免罪符ゲット!なのか、ほんとにオウムという特定団体が怖いのかどっちなんだろう。裏切られた論の人はまたちょっとちがう構造だろうけど。
自治体でのオウム信者転入拒否やおおっぴらな別件逮捕の報道をみていて、ずっとなんだかなあと思っていたけど、そのさまが目の前で繰り返されるのをみてより強くなんだかなあとやるせなく思ってしまった。正当な根拠なく誰かを強く排除して、それに対して誰も何も言わないという社会のあり方を見ると、自分が弾かれたらどうしようというおそれを強く感じるのだけれど、みんな無条件に、自分は迫害する側であってされる側ではないって信じているのだろうか。自分は自分がフェアに扱われることを望んでいるので、人に対してもフェアでありたいと思っているよ。青臭い弱虫リベラルと鼻で笑われるだろうけどね。

*追記: 念のため追記しておきますけど、自分は新宗教とかカルトとかキモイと思ってるし、近づかないよう注意して生きていますよ。でもそれは帰依者を生きづらいところまで追い込んでもOKっていうのとはちょっとちがう。上に書いた「心のスイッチ」を入れちゃう仕組みとそのパワーを心底恐れているので、そういうのに近づかないよう身を処しているだけです。洗脳なんて簡単だからね。