流水先生

読むともなしに自分の過去記事を読み返していた。その流れで、1998年9月の大森望「狂乱葛西日記」を読む。千街晶之の批判に大森望が答えているわけだが、以下の記述にいたく刺激される(9月10日分)。
http://www.ltokyo.com/ohmori/980911.html

 もうひとつ、千街晶之は、Dの危惧(「こういうのばかり読んでミステリーとはこういうものだと固まっちゃった読者が、フィードバックして大挙して作家になったらイヤだなと思う」)を受けたOが「無根拠に「それは大丈夫」と断言し、楽観的な未来予想図を描いてみせる」と書いているが、根拠を挙げているのは引用中の発言を見ればわかるとおり。
 でもDの危惧は当たってるじゃないかと千街晶之が持ち出すのが、最初のほうでふれた某応募作品なのだが、ゴキブリじゃないんだから、一匹いたら三十匹はいるぞと大騒ぎすることはないと思うね。もちろん、オレの予測がはずれて、世界がコズミック化する可能性はあるが、いまんとこ、清涼院流水フォロワーは一冊も本が出てないのである

この当時は本当にそう思ってたなー、自分も。「そう」というのは流水を許容する(大森)−しない(千街)のどちらかという意味じゃなくて、双方に通底する「流水はとんでもない」という感触。コズミックが出たときは、大学生協小冊子の書評欄に憤激調のけなし書評が載ったり、当時の新本格好き知人がみんな口を極めてののしったりしていたものだ。そこまでいうならと思って読んでみたけれども、もちろん壁に投げつけたし(笑、メフィスト賞よどこへ行く、と愕然としたし。その後何かで大森望カンブリア紀説を目にしたときは、まさに膝を打つ思いで、そうか流水はつまりアノマロカリスなのか、と納得していた。
しかしこのわずか4年後の2002年には、流水ファンを名乗り商業的に大成功する作家が顕現してしまったわけで。そうそれは西尾維新。さらに流水トリビュートの名作も書かれるわけで。そうつまり九十九十九。さらには流水先生を創造神とあがめるような雑誌も出てしまったわけで。そうもちろんファウスト。うーん進化の袋小路じゃなかったんだね。
もっとも「フォロワー」という言葉の定義は問題にすべきで、少なくともいーちゃんの小説は流水チックではないし、ファウストだって載ってる作品自体はどれも流水先生そっくりさんではない。島田荘司とかだとそっくりさんがいるけど、流水先生の影響力はそういう感じじゃない。流水的荒唐無稽という意味では舞城は近いものがあるが、流水先生とはちがう軸でクオリティが高いのはいうまでもない。あ、流水先生がクオリティが低いといっているわけではないよ。正直に言って、自分には流水先生のクオリティは判断できない。
たとえば法月綸太郎好きの自分は、のりりんの好きな本と言うことでデクスターを読み始めたわけだけれども、これから先、西尾維新ファンになった若者はやっぱり、流水大説を読んだりするんだろうなあ。そういうとき彼らはどう感じるんだろう、流水大説を。とっても知りたい。
ただ、西尾維新関連のファンブックとかだけでは、流水先生に対する同時代の毀誉褒貶は入ってこないんじゃないのかな。当時のミステリファンにとっては、毀誉褒貶どころか、毀毀毀毀毀毀誉褒貶貶貶貶貶貶貶貶貶くらいだったという情況くらいは知っておいて欲しいものだ。勘違いしないで欲しいんだけど、否定している訳じゃない。人の感情を揺さぶった総量を考えると、コズミックという一冊にはものすごいエネルギーがあったわけだ。だからコズミックの中身を読んで、これが西尾先生のルーツ…ととらえてしまうと、見誤るんじゃないかな。とりまく時代情況とか、そのあたりがあってはじめて光る一冊ってあるよね。コズミックは少なくともそういう一冊だと思う。西尾先生のルーツを巡礼したいならば、単にコズミックを読むだけじゃなくて、その直後の書評とかそういうのを読んで時代情況を追体験した方が、より面白いと思うよ。というわけで大森日記の上記引用あたりをまず読め、若者よ。