現実逃避としての雑誌ファウスト語り

逃避。今日のやること全然おわってない。超マズイ。なのに気になってファウストでジャンプしていろいろ読んできた。夜のファウスト祭りレポを中心にはてな人ファウスト語りを見つつファウスト語り。
自分は西尾維新舞城王太郎をもともと新刊で即買いする読者だったので、定期的に二人の小説が読める、ということでファウスト買っただけなんだけど、そういう読者は求めてないのか。なんていうか入れ物に全然興味ないのだ。別にメフィストでも小説現代でもその二人が連載すればたぶん買う。だから自分にとって重要なことは、ファウストならではのカラーみたいなことではなくて、定期的に出してくれ(しかもできれば頻繁に)、ということだけなんだけど、ちがうんだね。少なくともある一定のはてな界隈ではもはやファウストというのは何かの象徴的存在なんだね。だいぶびっくりしたよ。もちろん、小説現代の増刊としてメフィストができた、のは知っているから、さらにその増刊的なファウストにのる文章には互いに似通ったカラーがあるだろうことは想定していたけど、なんかそんな次元じゃないんだね。じゃあ版型を小説現代メフィストと一緒にして欲しい、なんて口にすることも許されない希望なのかな?幼少期から親が買う小説現代・新潮とともに育った自分には、あの手触りこそが小説誌なんだけど。で挿し絵は宇野亜喜良で。漫画は谷岡ヤスジで。そんなファウスト見てみたい。
そういう意味ではあれですね、西尾と舞城みたいにファウスト以前から存在した作家ならともかく、これだけ読者の一隅に妙なコミットメントがあるなかでファウストでデビューしたりすると、すごい面白いスタートになるでしょうね。ほら、一部の同人誌上がり作家とか小劇場上がり役者とかが言われてるようなかんじのイメージが。ま、でも、応募してくる方がすでにファウストバリューを共有してるだろうから、現実的にはあんまり面白いことにはならない公算大。

理系/文系レッテル問題

理系/文系レッテル問題の本質的なくだらなさは、カテゴリの特性ととカテゴリ内要素の特性を短絡させていることにある。どんなカテゴリにあっても立派な人は立派だし馬鹿は馬鹿だ、なんてあえて口にするまでもない。せめて統計的な有意差があれば話もできるが、印象論ベースではどう対応していいのかわからなくなる。
しかしまあちょっとしたコミュニケーションになりやすいからか、理系/文系カテゴリを語りたがる人々は結構いる。
個人的には、理系/文系のカテゴリは、大学受験のためにどういう科目を勉強するかというただその一点のみで意味を持つと思っている。その伝で行けば、自分は「理系」だ。理科系学部に進学するために、理科系進学コースに振り分けられ、文化系進学コースの人々よりは長い時間を理科と数学に費やした。しかしまあ、それは大学受験期における分類であり、かつ、大学学生期における分類であるだけで、「趣味は読書」と断言してしまう若者にふさわしく、小説を読む傍らブンガクやシャカイガクやテツガクにも興味は持っている。
ところで「理系ってどういう人たち?」という問いに対するかなり秀逸な答えは、「『今日はいいお天気ですね』という挨拶に『いつに比べて?』と返す人々」だと思うが、これは森博嗣のなにかで読んだ。なんだっけ?まあとにかくこの答えはかなり実像を表している。自分の交際範囲には、たしかにこのような会話はふつうに存在する。で、この『いつに比べて?』とよく似た返答が『それは定義によるんじゃない?』である。「森博嗣って悪党ですよね!」「それは悪党の定義によるんじゃない?」みたいな。「今日はいいお天気ですね」のような、慣用的な表現にまで徹底してしまう極端ぶりはたしかにおかしい。でもこういう発想は理系固有のことなんだろうか?
そんなことはもちろんない。誰かと何かを話し合うときに、自分がある意味を込めて用いた言葉を、相手がどんどん別の意味につかっていけば、ちょっと待ってよ、と誰だって思うんじゃないだろうか。実際にはふだんの生活で意味を確認する作業は少ないかもしれない。しかし同時に意味を確認しなかったがゆえの行き違いも多く生じているだろう。つまり、定義や意味を確認する作業に見えるのは理系/文系の問題ではなく、言葉の正確性に神経質/無頓着という二項対立なのだ。
ではなぜこのような姿勢が理系固有と思われがちなのだろうか?ひとつの理由は自然科学(理系と交換可)分野においては、簡潔で明瞭な意味の伝達がなによりも尊ばれるということにある。自然科学分野での高等教育過程において、文章表現の訓練ではしつこいほどに表現の正確さを教育され、無根拠にものを言わないことを教育される。しかしこれらは実は、サイエンティフィック・メソッドでは当たり前のことであり、科学とつく以上、人文科学分野や社会科学分野においてもそうであるはずなのだ。では、大学進学率が45%にものぼる現代において、サイエンスにおいて当たり前の「定義確認ぐせ」はなぜ理系固有と目されるのだろう?
問いの立て方に答えが内包されているが、つまり自分は、人文・社会科学分野におけるサイエンティフィック・メソッドの徹底について懐疑的なのである。理由はいろいろ考えられる。教師が悪い、学生が悪い、といった単純な理由だけではなく、人が多い、時間がない、ラボ制でない、なくても卒論が書ける、そもそも卒論を重視していない、などなど。なかには構造的な理由もあるだろう。しかしいずれにせよ、定義や典拠を示すという科学的にフェアな表現の訓練を人文・社会系に限らずすべての高等教育課程ではもう少し徹底するべきなんじゃないかと思う。
まあ、もはや大学は高等教育ではないとか、科学的であることに価値をおいていない、とかいろいろな反論が可能であることは理解しているつもりだが、自分は古き良き教養主義者なので、やはり高等教育における授受双方のエネルギーの消費の結果としてはなにがしかの教養が身に付くべきであると考えるし、教育の真価はならったことがすぐさま使えるというような実効性ではなく、科学のディシプリンを身につけるといったような根源的なところに存在していると思っている。そしてよく言われる「論理的な考え方」などは、数学をやればいい、とか、論理学をやればいい、とかいうものではなくて、サイエンスの作法を身につけるうちで現れるものだと思っている。理論や法則は新しい事実によって改変されるかもしれないが、サイエンスのお作法はそうそう変わるものではない。サイエンスのお作法を身につけることが結局、科学の根本なのであり、どんな場合にでも活きてくるのだ。見合いの釣書にはサイエンスのお作法修了と書きましょう。
同時に、アカデミックな人々は、旧制高校チックな知的エリートとしての自負を持つべきであると思う。又聞きなのだが、50代くらいの、自分からすれば大先生な人々が集って愚痴っていたとき、傍らで聞いていた70代の大大先生が「君たちには知的エリートとしての自負がないのか!」と一喝したことがあったそうだ。この大大先生とは日本代表クラスの学者であるが、この話を聞いたときはさすがに驚いた。そんな強烈な台詞、なかなか吐けるものではない。だが、さすが旧制高校世代、とも思った。なんて痛烈でかっこいい爺さんであることか!アカデミズムには、やはり、これくらいの自負と自覚があれかしと思う。