腐女子ネタというよりは

昨日のエントリに書いた腐女子ネタが紛糾している。自分は昨日のエントリでも少し書いたように、そもそもgoitoさんがemifuwaさんの主張を誤読しているだけだと思う。
たとえば、http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040816

ただ、ぼく自身の考え方としては、たとえばマンガ史という見方をとった場合、
そのパースペクティヴからは、「やおい」「ボーイズ」は、積極的にその価値を
とらえることはあっても、棄却されてよいものではないと考えている。

ここで氏は「マンガ史」という外側からのスタンスをとることを明らかにしている。goitoさんがこういう立場から「やおい」をポジティブにとらえることは自由だが、今回の本題はそういうことではない。
ある漫画を「腐女子向け」「腐女子好み」と喧伝することがなぜいやなのかだが、
http://d.hatena.ne.jp/emifuwa/20040731#p1

どうして二次創作をしたり、男同士くっつけたり、それについて夜を徹して語り
あったりするか。
それは、やはりなんと言っても原作を愛しているからです。
原作を愛していないのに盛り上がることは、普通はなかなかできません。できる
人もいるようですが、私の周囲にはいません。出会ったこともありません。
(中略)
もっと、正々堂々と、胸をはって、展開してほしいんですよ。そんなおお振りを、
愛したいんですよ、一読者として、そして時には腐女子として、人様に見えない片隅で、
同好の士たちと。あまりに勝手な言い草かもしれませんが。

原作好きの内部集合として腐女子があることがよくわかる。したがって原作を「腐女子好み」と喧伝することは、a. 原作の広まりを阻害する、b. 腐女子の萌え力を低く見積もっている、という2点を意味し、対世間にも対腐女子にも失礼な振る舞いであるとemifuwaさんは原作好きかつ腐女子として主張していると読める。
これに対してgoitoさんは

そんなに卑屈にならないで、もっと堂々としてなよ、と思う部分もある。日記の全体を
みていないので、的はずれなことをいっているかもしれないけれど、もうすこし「やおい」や
「ボーイズ・ラブ」のポジティヴな側面をみてもよいのでは? と思う。
(中略)
たしかに、腐女子的な視線に対する、男子オタのホモフォビアにもとづく反発はあるだろう。
だが、彼らは弱く、臆病なだけなのだ。自分が誰かの欲望の対象になること(もっといえば、愛されること)が
怖くて仕方がないのだ。だから、あまり気にすることはないよ、と思う。さらに強くいえば、
腐女子を攻撃する心理と、彼らが「モテない」原因は、実は同一のものだったりする。

と反応しているのだが、こりゃちょっとないんじゃなかろうか。emifuwaさんの語りには「世間」は含まれているが「男子オタ」は含まれていない。なぜここに急に「男子オタの反発」が出てくるのか。元ネタに想定されていない「男子オタ」を引っ張ってきて、あまつさえその「男子オタ」を批判するという書きよう。goitoさんは第三者的に、「腐女子」と「男子オタ」の対立構図を描き、さらに「男子オタのホモフォビアにもとづく反発」によって「腐女子」が「卑屈」になっているという構図を描いているようである。氏が想定している「腐女子」は世間にはいるかもしれないけれど、氏がリンクしているダイアリの周辺にはいないんじゃないかなあ。
というわけでですね、腐女子の心理の綾への探求心とかそういうことよりはむしろ、当事者のトークを枕に自説を開陳しているうえに、自説に仮定される想像上の「腐女子」に対して呼びかけている、のではないでしょうか。シュールだ。だから現時点では有効な論説にはならなさそうだなあと思います。何をいっても自説に回収されるとどうしようもないですからね。
しかし当事者ではなく第三者(マンガ史的立ち位置でもいいが)だからこそ、emifuwaさんの語りはめちゃくちゃ面白く、示唆深く、ネタの宝庫だと思うのだが、なんであんな興味深い一次資料を目にして自説への取り込みしか思い至らないのか、そっちの方が不思議だ。トラバ−コメントでわずかながらでもつながりができたのだから、そこをきっかけに語りを採集していけばいいのに。自分は古老の話を聞くタイプのフィールドワークを主としてやっているから、一次資料に出会ったらまず採集採集、協力者に出会ったらとにかく質問質問、を常としているのでものすごく違和感を感じた。つーか社会学民俗学の相互批判の構図がうまいことあてはまっちゃうよ。マンガ評論のような分野にこそ、今こそ常民の視点が必要なのかもしれない。

例のやつ

東先生の同人誌ですが、
http://artifact-jp.com/mt/archives/200408/hakagix.html
ここで加野瀬さんがインタビューをお受けになったというところの「コピー誌」が、前評判以上になんかすごいらしいですね。コピー誌だけ出回らないかな。あと、ここでもふれられていますが、更科修一郎さんがかなりおもしろそうなのでそこだけ読みたいです。というかこのテーマで更科さん個人誌が出ればそっちを買います!しかし、いくら強く惹かれるとは言えワントピックに2700円はちょっと...と尻込みしていましたが、コピー誌にオチがあったとは。奥が深い。
なんというか素人考えでは、もうちょっと買いやすい価格になるよう内容をシェイプするとか分冊を分けるとかすればいいように思いますが、そういうことを考えない、というところに重きをおいておられるようです。しかしそうなると、他に媒体を持つ人が既存の媒体での制約を超えてしたいようにするための“同人”というのと、初見のお客さんをゲットしようというために工夫を凝らす“同人”は質的にずいぶん違いますね。あたりまえですが。そういう多面性が自分なんぞは面白いと思います。
同人活動は一般的に商業主義へのカウンターと考えられるのでしょうが、自分の同人活動を表すひとつの指標として金銭的な価値というのはわかりやすく、説得力があるように思います。実際、同人活動をする人々も、金銭的な売買自体を忌避しているわけではないのですよね。商業主義にのらないからコミケ、というのは結局のところ、小ロットの問題とか商業倫理の問題がメインなのではないでしょうか。そうなるとこれはこれで、そういう特性を持ったひとつの市場であって決して“商業主義”と無縁ではない。自らのことを「商業主義軽視の批評家」と任ずる東先生ですが、同人活動の一部に見るこの商売っ気のことをどう考えているか気になります。また、東先生がコミケにおいて商業主義フリーに振る舞えるのは、既に“既存の商業主義”的世界においてひとかどの成功を納めているからではないでしょうか。先生が、どうしてコミケに出展するという選択にいたったのかがものすごく面白いと思います。なぜコミケなのかについて、誰かインタビューしてください。ぜひ。

緻密と情熱

犀川助教授の「境界条件が」どうこういう言いぐさ、最初にS&Mシリーズを読んだ頃は、なんつー辛気くさいおっさんだと思っていたが、最近では自分も境界条件が気になるようになってしまった。年をとったということかいな。しかし、「いつ」「どこで」「どういう意味で」がはっきりしないで評論的な文章にはなりにくかろう。
しかし同時に緻密ならばしょーもなくてもいいのか、という問題はある。緻密で隙がなくとも情熱のない文章なんてつまらない。芸がない。センスと情熱が先で緻密さはあとにくるべきだ。
以下、嵐山光三郎小林秀雄評。文人悪食より。

 私も、若いころは人並みに小林秀雄を読んで、新鮮な発見をした一人であることを告白しておこう。
しかし、その後読みなおしてみるとアラがめだつ。とくに西行や兼好にそれが感じられる。秀雄が書
く西行は史実に忠実ではない。西行に対しては、思い入れだけが先行し、動乱の世をいかに生きるか
を、西行に身を借りて述べただけである。重要なことは、これが昭和十七年という戦時中に書かれた
ということである。兼好に関して「無常」を語っても、それは「無常」から「常なるもの」を見よう
とする秀雄自身の自画像である。