緻密と情熱

犀川助教授の「境界条件が」どうこういう言いぐさ、最初にS&Mシリーズを読んだ頃は、なんつー辛気くさいおっさんだと思っていたが、最近では自分も境界条件が気になるようになってしまった。年をとったということかいな。しかし、「いつ」「どこで」「どういう意味で」がはっきりしないで評論的な文章にはなりにくかろう。
しかし同時に緻密ならばしょーもなくてもいいのか、という問題はある。緻密で隙がなくとも情熱のない文章なんてつまらない。芸がない。センスと情熱が先で緻密さはあとにくるべきだ。
以下、嵐山光三郎小林秀雄評。文人悪食より。

 私も、若いころは人並みに小林秀雄を読んで、新鮮な発見をした一人であることを告白しておこう。
しかし、その後読みなおしてみるとアラがめだつ。とくに西行や兼好にそれが感じられる。秀雄が書
く西行は史実に忠実ではない。西行に対しては、思い入れだけが先行し、動乱の世をいかに生きるか
を、西行に身を借りて述べただけである。重要なことは、これが昭和十七年という戦時中に書かれた
ということである。兼好に関して「無常」を語っても、それは「無常」から「常なるもの」を見よう
とする秀雄自身の自画像である。