みんなになりたい

遅ればせながらしなっちょさんの秀逸な記事を読む。
「みんなになりたい」大手小町の仕組みはネットになにをもたらすのだろう - シナトラ千代子
ネット界隈の匿名のコミュニケーションの場で、「そうそう私もそう思ってたんだよね〜」という雰囲気が形成されていくというのはよく観察できることで、そしてそのたびに苛立つことでもある。
なんで苛立つかというと、大抵、「正論」めいたことをベースにして集合しているから。常識とか世間体とかにふだん辟易しているから、新しい交流の場であるネットとその自由さが楽しいと思っているので、こういう手合いには本当にぞっとする。多数が共有する“正論”ベースで同調するのはラクだし、つながりやすいし、マスの立場から少数を攻撃するのは気持ちよいだろうけど、それって人間というかこの社会の一番しょーもないところだと思うんだよねえ。
でもまあ、どんな世間でもこの手の感覚の人々はいるものだから、いること自体はしょーもなーと思いながら気にしない。気になることはだね、この手の「マスに属したい匿名の人々」の中に扇動者がまじってるんじゃないの?ということなんだ。ネット右翼とか人権問題の系の2chスレッドってすごいよ。「現実世界では〜〜という人がいて不安だったけど、このスレッドでは本当のことがわかるからいい、安心した」みたいな書き込みをみるたびに、お前本気でいってるのか?と思ってしまう。
わかってやってる人がほとんどなのだとは思うけれども、もし本気だったらびっくりする。匿名のつながりたい場に自分の何かを依存するのは、たんなるマス志向とはちがう。これまでの世界では、マスに依存すると言ってもまがりなりにも現実にベースがあった。しょーもないおばはんがネタもとだとしても、具体的に顔を思い浮かべながら、「○○さんも××さんもそう言ってる」と主張できる。でも、ネットの匿名言論の場なんて、何百何千の書き込みが全部個人の自作かもわかんないし、ある悪意をもった集団の意図的な書き込みかもしれない。そういうところに自分のベースを置くのはどうかと思う。個を確立するより群でいきることをえらぶのは人生観の問題だけど、群で生きるからこその危険察知能力も必要だと思います。

週刊文春今週号

ここしばらくの文春の雅子妃叩きは大変興味深い。まあ叩かれてもしかたない生活だからなー。だめだ、向いてない、と思ってもやめられない立場だという点では気の毒ではある。皇室というファンタジーの世界に適応できないことについて気の毒だと思うのだが、ファンタジーに心酔している人も結構いるみたいだし、それよりややこしい「ファンタジー維持のために税金で養ってやってるんだ」という輩もいるし、叩かれても当然かもしれないなと思う。
興味深いのは、離婚とか廃太子とかそういうことができるのかどうか。なんか同時代の事件ながら、歴史物を見ているように興味深い。目の前で実録・平安絵巻(外戚がどうこうとか、廃太子狙いとか、弟宮の活躍とか)が繰り広げられているようで、エンターテイメントとしてわくわくする。まあでも、明治以降の皇室は不自由に過ぎる。2600年(笑)も続けていくためには、えーかげんさがなければ無理だろう。京都へお還りいただいて、文化と祭祀に生きてもらえばいいのにね。
どーでもいいけど、2600年とかいうと、皇紀軍国主義!みたいな反応が一般的だと思っていたのだが、最近の皇室典範改正論議ではみんなふつーに2600年って言ってるね。神武天皇のおばあさん(ウガヤフキアエズノミコトの母親)は海の生き物(神様)なんですけど。
ウガヤフキアエズ - Wikipedia
いくらなんでも皇室典範改正論議という実務的な話題に、神話時代からの話をまぜこむのはいかがなものかと思います。神話に生きる人々に法律の縛りをかけるのがおかしいのかもしれませんけど。