さらに儀礼的無関心

逃避ついでに気になってたことをまとめて書いておく。これだってもう今更ネタだが。
ポイントは“あんまり”たくさんの人に見られては困るという感覚にある。この“あんまり”は人によって尺度が違うので難しいところだが、尺度が違うからこそ発信者が人数をいじれるしくみがいいだろう。本来は技術的に対処するのが筋だと思う。http://artifact-jp.com/mt/archives/200401/nettrainingplace.htmlの「ネット教習所」論が技術的な解決についてはわかりやすいと思う。同じシステム的な対処でも、自分がうつうつと考えるhttp://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040205#1075922979の「ウェブログ論争保険」では、サーバ(サービス提供者)とウェブロガー(サービス利用者)との間にエージェントを設けるしくみであるが、技術的に簡単に対処できるなら必然性は低い。システムの連鎖のどこに安全機構を設けるかというシステム設計上の議論はあるだろうが、全体論的に制御が必要だという感覚はわりに広い範囲に共有されているのではないかと思う。それゆえにこの話題も盛り上がったのだろうし。
儀礼的無関心について疑問なのは、そんなのある程度すでにネットでも達成されてるじゃないかということであって、それをあえて踏み越えてくるのはネットに対する理解が足りない部類の軽挙か、恣意的にやってる部類かくらいしか考えられない。前者ならばリンクの特質を理解すれば身を慎むようになるだろうし、後者なら「そもそもネットというのは全世界に広がっているもので」とかいう大義名分がある以上、筋論では対処できない。社会への理解・習熟が不足しているグループと、あえて社会を踏みにじっているグループを扱うのに、儀礼的無関心という発想がなにか有効なパワーを獲得できるのだろうか。これもまた逆ジェンダーエンタテイメントと同じように、用語の利便性に引っ張られて、定義があいまいなまま言葉だけが一人歩きしているような気がする。大勢がもやもやしている気分をすくい上げる点では十分に意義がある言挙げだが、そもそもの定義があいまいでは話が盛り上がってきたときによっかかるところがなくなってしまう。実にもったいないことだ。