ファウスト #2

読みました。掲載順に小説の感想。
乙一:おもしろかった。主人公のクールさが好きだ。「小畑健先生も大変だと思う」のフレーズがちょっと面白かった。原稿依頼時に挿絵画家はもう決まってるのかな。昨年のcomic cueにこういう特集あったなあ。あそこに載せれば良かったのに、と思った。物語としてちゃんとカタルシスのあるすっきりしたうつくしさ。だけれども、物語として読ませ、いい気分にさせるというのは重要なことじゃないかと思う。
滝本竜彦2chだなあ。2chわからないとわからないかもなあ。登場人物の自分装いパターンの徹底ぶりに純粋に恐怖を感じる。背景に巨大な組織が、というのは普通に聴いたら電波としか思わないけれど、物語世界内では普通に感じる。つまり狂ってる。
舞城王太郎翻訳:舞城の素晴らしさは文体だと言うことをますます強く確信した。哀しくも美しい文体は、舞城ならではだ。こんなにもの悲しく、そしてうつくしい文章。あー、舞城ファンなのでちょっと陶酔してしまう。
清涼院流水:あんまりおもしろくないよ。いいたいことはわかるけどね。
佐藤友哉:なんかわからんがスカッとした。鬱々としているなかの清涼感。実生活から言えば、どっちの立場もわかるよ。だけど、世間に巧くアジャストできない自分は、主人公チックなところがあるのだ。ユヤタンは人のもやもや感をうまくすくっていると思う。
西尾維新:後味悪い。安全ピンのような〜を挿絵が補完しているのに驚愕。りすかは話が壮大すぎて、ちょっとひいてしまう。これほんとにちゃんとつじつまあわせて終わるのだろうか。
更科修一郎:一番笑った。『八月はホロコーストの毒ガス探偵』『ぼくとフリオと校庭の壊れた世界』『沈没オルガン〜李博士がひきもどす犯罪』『山ん中の塩田丸男』にばかばかしさの極致を感じて大盛り上がり。タイトルもタイトルだし。こういうの好きだ。
非小説。
東浩紀:メタな感想としては、P.251の「私たち」って主語に強烈な違和感。それはだれよ。あと、文中になんの注釈もない「前著」に当惑。内容の感想としては、与える物語の枠組みよりも、消費者の消費形態の自由度の問題のような気がする。サークルがあれば無理矢理やおいっくな関係をよみとることが共通の文化として生じる、みたいな。十全には納得できないなあ。あと、連載内でもりあがりをつけられない、という指摘がhttp://d.hatena.ne.jp/motidukisigeru/20030908#p2にあったが、その悪弊は今回もそのままのように思える。とりあえずvol.1買って読んだけど友達に貸しっぱなしでそれきり、という自分にとっては、何の注釈もなく“前節が”とかでてくるのはつらかった。
スーパートークセッション・管野ひろゆき:「編集部」という表記で、一人称が「僕」なのは我慢できない。それくらいなら「編集長」でしゃべってくれ。インタビューなのにインタビュアーの東よりも「編集部」の方がつっこみまくりなのはなんなのだ。そんなことになるなら最初から鼎談でやるべきじゃないのか。管野の話は技術論としておもしろかった。概念的(論壇的な文脈?)に回収するより、技術論で聴いてくれた方が面白いなあと思うのだが。
  この項追記:よく読み返してみると「スーパートークセッション 管野ひろゆきwith東浩紀+編集部」であるので、インタビュー・インタビュアーという観点はちょっと違った。しかし、“with”とか“+”とかの関係がよくわからん。管野ひろゆきとセッションした主体は誰なのだ。あと、一人編集長の責任編集だから編集部って言うのは編集長と同義なのだよ!という説明だとするならそれは明示されるべきだ。“編集部”というインデックスで「僕」なのはおかしいって。
巻末独談会・編集後記:今号の「うへぇ」担当部分。思い入れがあるのはいいことですね。でもそれは勝手にやってください。というのが自分の感想なのだが、こういう考え方がファウスト的には out of date なのか。それならちょっとひく。お金払って掲載作品を買う意識はあるが、編集長の自意識を引き受けるつもりは毛頭ないぞ、と。まあでも、うへぇ収集家としては愛好しているのであえてやってるなら(自意識開陳でひかれるの承知の上なら)まあいいのだけれどもね。
コラムはユヤタン、滝本がサイコウ。滝本さんはほんとにいったんですかね。すごいな。漫画は西島大介がよくわからん。共感できないし面白くないよ。ジョージ朝倉にちょっとしびれた。そのほかはみな標準的に面白かった。
フォントにこだわる姿勢は尊敬する。見やすさはまちまちだが舞城のところが最も雰囲気にあっていたと思う。フォントで作品を見分けられるので便利なような気もする。