天下第一の大学として

http://d.hatena.ne.jp/matterhorn/20040312#p2へお返事。元の自分の記述はこちら。自分の元記事批判には二つのもやもやがある。
第一に、元記事の河口助教授のコメントがぶれていると思う。再度引用すると助教授は以下のように語っている。

「学生の中に、将来アニメやゲームなどのコンテンツビジネス界への就職を希望している生徒が確かにいると実感した。中には絵などが非常に上手い生徒もおり、学問の成績が良かったので親に東大に入れられたが、本当はそういう世界に進みたかったという生徒も多い。彼らを救済するためのプログラムでもある」

これではアニメ・ゲーム業界のどのポイントに専門的教育を施した東大生を送り込もうとしているのかがわかりにくい。唐沢俊一:裏モノ日記:2004年3月9日分では以下のように述べている。

朝日コムで『アニメのプロ、東大が養成 講師陣にジブリの鈴木氏ら』という記事を見つける。最初この見出しを読んだ時は“創作の才能が大学で養成できるかよ、ケッ”という感じだったのだが、記事を読んでなアんだと思った。この見出しに問題があるのだ。プロはプロでも、ここで養成しようとしているのは“プロ”デューサーなのであった。これならば大いに見込みがある。

唐沢のこの解釈ならわからぬでもない。引用部分のあとにプロデューサーならなぜ見込みがあるのかについて縷々記述があるので、ぜひ原典に当たっていただきたいが、大雑把な感覚で、プロデューサーなら高等専門教育に意義があるということは理解されると思う。
アニメ業界についてよく知るわけではないので割り引いて聞いていただきたいが、アニメ業界にはきちんとした産業構造が十分確立していないように見受けられる。有能な人材を育て就職するチャネルを形成することで一般的な企業らしくなるなら、アニメ立国のためには意義あることだろう。映画で言えば東映・松竹、漫画で言えば集英社講談社小学館、そういうところには東大生の就職応募採用チャネルがあるだろうが、アニメ業界にはない、というならば構図としてわかりやすいなと思うのである。
ところが、河口助教授のコメント内の「中には絵などが非常にうまい生徒もおり」という表現に自分などは首を傾げる。彼らはプロデューサーだけでなく、実作者をも育成しようとしているのだろうか?実作者と高等専門教育には関係が極めて薄いように思われる。また実作者・創作者であるならば、大学のブランド力や専門教育をバックに“救済”されるなどなおさら失笑ものであろう。
クリエイターの教育、についての問題はしかし、実はよくわからない。クリエイターと制度化された教育には一見関連がうすいように思うが、映画学科小説学科などはわりと古くからあり、またそこから出たクリエイターも多いようであるから、制度の中でもなにか意義ある教育もできるのかもしれない。ただこの東大での試みは、元記事を読む限り、あくまでコンテンツビジネスの人材を育てることが第一義のようであるのに、このようなコメントが出てくるのが不思議だ。ぶれていると思う次第であり、また、このようなぶれが目に見えることに疑念を抱く。
第二に、暴論であるが、実のところ、東京大学はいかなる分野においても実務者養成に自ら乗り出すべきではない、と思っている。アニメ批評・アニメ評論はやればよろしい。アニメ関連の評論は現在、在野の専門家かアカデミズムのサブワークでしかないので、アニメ評論をアカデミックのなかで、それこそハスミのようにやることは面白い。しかしいやしくも日本の最高峰を自負する東京大学で、民間企業就職のための人材育成などやる必要があるとは思えない。なるほどアニメ立国のためにアニメのわかるビジネスパーソンを育てることは実業界にとって有益だろう。だが誤解を恐れずに言えば、そんなこと、早稲田慶応でやればいいのだ。なぜ、東大がやる必要があるのか。
自分のこういう感覚は、もはや時代遅れなのだろう。ベンチャービジネスラボラトリーなどという噴飯物の名称を持つ組織が東大京大に設立されるご時世である。大学は学生をトレーニングし、一人前の社会にお役に立ちますような人材に仕立て上げるのが重要だと言われている。費用対効果。国民の血税。社会的意義。エトセトラエトセトラ。くだらないことばかりだ。それが学問なのか、それが知なのか。
学歴社会を放置していたツケが今になってやってきたとつくづく思う。旧世代のごまめの歯ぎしり。