生態系のこと

http://d.hatena.ne.jp/dokusha/20040527#p2 とここでとりあげられているいろいろについて。
メタファーとしての生態系であって、生態学で言うところの生態系ではないかもしれないので無粋かも知れないが、ちょっとだけ気になったので指摘しておく。
生態系=非生物部分(土、水、空気など)+生物部分(生物群集) が定義である。そもそもそれまでの生物だけを還元的に対象とする生物学では扱えないようなことがらを扱うために生態学(ecology,語源はoikos+logos,oikosはラテン語で家の意)という把握が生まれたわけであるので、生態系ということばはそのうちに環境を含む。
生態系とはネットワークであり関係性である。したがって「生態系がこわれる」という言い方は厳密には間違い。「ある定常状態にある系が別の定常状態に変化する」が正解。生態系(ecosystem)とはその名の通り系(system)であるから、よい/わるいは本質的にはない。しかしネットワークであるために、さまざまな環境の因子と生物種が互いに関連しあって(多くの場合長い年月をかけたのちに)形成されているバランスであるから、それを損なうことは思いも寄らない損害を引き起こす可能性があるので、極力そのような事態を避けましょうという態度がある。これが在来生態系を守ろうという話につながる。生物多様性保全の理念もおおむねこの流れにある。
また進化とは変化であって進歩ではなく、そこには価値判断は含まれない。現在の進化論の大勢はネオ・ダーウィニズムにあるが、これは突然変異+自然選択であらわされる。ダーウィニズムとラマルク説(用不用説)を間違えやすいので説明しておくと、「キリンは高いところの葉を食べるために首が伸びた」というのがラマルク説で、「首の長いキリンと首の短いキリンと首が中くらいのキリンがいたところ、首の長いキリンが他よりたくさんの葉を食べられたのでたくさんの子供を作ることができ、首の長いキリンの子孫が繁栄した」というのがダーウィニズム。つまりダーウィニズムでは生物が変化を選択するのではなくて、生物集団内のバリエーションに自然による選択がかかるというところが肝である。ダーウィン自身はこの場合のバリエーションが何によってもたらされるかを説明しきれなかった。これが突然変異によるものとされて自然選択と組み合わされたのが、ネオ・ダーウィニズムである。
より子孫を残しやすいことを適応度が高いという。進化論で言うところの「よく適応している」は「より多くの子孫(あるいは遺伝子)を残すことができる」の意であり、それ以上の意味はまったくない。適応度は子孫の数でのみ計られる。
ちょっと追記:生態系にはなぜ非生物部分が含まれるのか。それは生物群集と無機的環境が互いに影響しあって存在しているからである。無機的環境から生物群集へのはたらきかけを「作用」といい、生物群集から無機的環境へのはたらきかけを「反作用」という。生態系の定常状態とは動的な平衡であり、ただ環境という入れ物に生物が入っている状態を指して生態系とはよばない。生物部分+非生物部分+作用+反作用+生物部分内の相互作用をひっくるめて生態系とよぶのである。
進化について繰り返すが、進化とはあくまで変化と同義であって、なにか高等化がおこるわけではない。本質的には生物種の優劣は当然決めることができないが、一般的な印象として人間はなめくじより高等であり優れていると感じるだろう。しかし今後の環境の変化によって、なめくじ的形質が生き残りに有利だった場合、なめくじ的形質を多く持つ生物が繁栄することになり、なめくじ的な人間以外が生き残れなくなれば、あたかも人間がなめくじ(人間)に進化した、と見える事象が生じる。一般的な感覚から言えば人間がなめくじっぽくなることは高等化とは感じられない。しかし環境条件の変化によりなめくじっぽさが生残率を上げるならば、それは人間はなめくじ人間に進化したと表現できるのである。
またミトコンドリア・イブについて誤解されやすいのだが、すべての現存人類が何万年か遡ればある一個体に由来するミトコンドリアを持っているということは、元祖となる一個体(ミトコンドリア・イブ)から埋めよ増やせよ地に満ちよ式に人間が増えていったのではなくて、それ以外の個体に由来する系統が現在までの歴史の中で人間集団から失われていったというだけのことである。
この項の目的だが、別に「知の欺瞞」をやりたいわけではなくてことばなんて自由に改変されればいいと思っているけど、すれちがいの原因がことばの使い方の違いのように感じたので、厳密にはこういう感じですと提示してみた。まあ単なる酔狂です。
それから「獲得した優位な性質がなぜ遺伝に反映されないのか」は、「セントラルドグマ」で説明されている。セントラルドグマとは遺伝情報はDNA→RNAアミノ酸(タンパク質)と伝達され、その逆はないとするものである。基本的に個体が経験した環境の変化によってひきおこされる表現型の変化がDNAを変えることはない。したがって、環境の変化が形質の変化を促しなんらかの新たな形質が獲得されても、それがDNAを変化させないので次世代に伝えられることはない。
進化論や遺伝については以下のリンクを推奨する。
http://meme.biology.tohoku.ac.jp/INTROEVOL/
http://www.nig.ac.jp/museum/index.html
ただどうでもいいと思いながらもやや熱くなっているのは、進化に価値判断を持ち込むことに忌避を感じるから。自分の意見を総括すると、進化論で言うところの勝ちとか負けはものすごい時間スケールで、しかも子孫の数だけで考えられるものなので、それに比べてきわめて短いある生物の一生の時間スケールでの勝ち負けとはちょっと単純に対照しにくいのでは、ということである。また人間は環境改変力(反作用)が大きいので比較的環境変動に強いように誤解しやすいが、熱波で何千人も死んだ昨年のフランスの事例を出すまでもなく、人間もまた環境の影響(作用)を強く受けている。というか人間社会全体としてみれば、無機的環境や他の生物群集を資源として利用し、利用したカスを廃棄しているので、人間社会全体の経済は無人島におけるロビンソン・クルーソーの経済と大して変わらない。したがって人間社会を機械的生態学で扱うことは難しいと思いつつも、人間だけまったく別立てで扱うのも変な話だと思っている。適切な事例選択が必要でしょうね。