第三章−「かまやつ女」のイヤさ

「六條女」抜きにしても「かまやつ女」は十分イヤだ。しかしこの不快感は重層的な不快感であるようなので整理してみよう。
(a)表象としてかまやつを選ぶところの吟味のなさ
三浦氏はまず「かまやつ女」をムッシュかまやつの外見に似ていることから名付けたと述べている。しかしムッシュかまやつは長い芸能人歴の中で必ずしも一貫したスタイルではない。また近年テレビ等で見かけるときはスーツを基本にしているようだ。このような点から、外見上の相似について疑問がある。次にサンデー毎日の記事中では、ムッシュの存在が象徴している、とも述べており、必ずしも外見だけではなく内実も近いと言いたいようだ。しかし転変の激しい芸能界で長らく生き残っているというムッシュの存在は、『生活をよくしたいという目標がなく、努力に対して意味を感じない性質です』というあり方とはかけ離れているのではないだろうか。また当該女性集団がムッシュかまやつを認識しているかどうかについても疑問が残る。結果として「かまやつ女」という命名を行う際に、なぜかまやつなのかの吟味が少なすぎるように感じる。というか、三浦氏のムッシュかまやつに対するイメージの貧困がこの表象に結びついているのではないかと思ってしまう。だって、ムッシュみたいで洒脱でありたいと思ってる若人からすれば「かまやつ女/男」呼ばわりされたら喜んじゃうと思うぞ。
(b)べつに近ごろのことではない
たとえばhttp://d.hatena.ne.jp/sexyhoya_kouzou/20040627に詳しいように、「近ごろ固有のことではない」とか「本当にそんな集団いるのか」とか「っていうか的はずれ」というようなコメントは百出するのではないかと思われる。が、この辺に関しては自分はあまりつっこむ気にはなれない。望月茂(id:motidukisigeru)氏的にこの手のとんちんかんに細かくつっこむことは重要だとは思うが自分の手には余る。また学者ならつっこむ気になるがマーケティング屋さんなら外すと仕事失敗につながるはずなので、世間にまかせていいんじゃないかと思う。まあこのようなお仕事は、村上春樹言うところの“文化的雪かき”みたいなもんなんで、自分が信じないし自分の周りにも信じさせなければ、世間が、特に上の世代が下の世代をつかみ損ねようと、べつに知ったこっちゃないと思う。
(c)社会学マーケティングのマリアージュ
(b)と矛盾するようだが、個別の案件については知ったこっちゃないと思っているが、総じて社会学的用語を振りかざしてマーケティングとかなんとかの手合いには、偏見だが不快感がある。あくまでも個人的な偏見であるが。学術的な社会学者が気の毒になるが、社会学者自らそっち側に踏み外したりしている事例も多いようなのでその辺はよーわからん。べつに既存の学会システムが素晴らしいと思っているわけではないけれど、相互批判のルールが一応定められていることは事実だ。批判的検証によって成立するのが学説だと思うので、まあ本人たちは別に学説やってるつもりないんだろうけれど、思いつきとか恣意的定義で社会を語ってるつもりになられてもなあと思う。今回の例で言えば、参照できる限りではアンケート手法などについては疑問が多く、統計的にはあまり意味がないように思われる。そういうデータを元に世代論を語られても議論しようがないんじゃないか。またマーケティングってもう少し現実的なものだと思っていたので、よく読むと説教という今回の例は意外。