研究と批評と

さて本日のgoitoさんのダイアリについて。http://d.hatena.ne.jp/goito-mineral/20040820

たしかに「批評」というものは、状況への介入を伴います。
そこが「研究」と違うところなんですが、今回、まずかったのは「表現されたもの」ではなしに、
不用意に「主体」に踏みこんでしまったということなんですね。
(中略)
ただ、完全に介入のない「研究」というのは、それもやはりあり得ません。観察することによって環境は
変化するわけだし、またその結果が「学」として発表される、言語化されることによるフィードバックは
常に生じてしまうからです。

自分は「研究」には多少馴染みはあるが「批評」については門外漢なので、「批評」についてはなんともいえない。したがって「「批評」は状況への介入を伴う」とする規定には首をひねりつつもそういうもんかいなと受け止めておく。他方、この表現からは氏は「研究」を「状況」から乖離したもの、静的なものと位置づけていることが読みとれる。
「研究」(もちろん「批評」も)ということばが広すぎるために、氏が一体何を念頭においてこうお書きになっているのが見えにくいのではあるが、「研究」というのも「批評」同様に創作行為であるので、ただ観察し記録することだけが「研究」ではない。モノグラフをつみあげよう、という自分の発言は、単に記録を志向しているものではない。周到なフィールドワークによるモノグラフの積み上げは、その後の理論化や概念化の材料となりうる。逆にいえば理論化や概念化の前に、十分なモノグラフがいるのではないかということだ。先に述べた民俗学社会学の相互批判の構図とは確たる言説があるわけではなく、「社会学者は現場を知らないですぐ概念化しようとする」vs「民俗学者は一事例に拘泥して概念がない」というくらいの、飲み会でよくでる話題にすぎない。
フィールドワークにおいて観察者問題というのは常に存在する。近年のライフヒストリー研究の高まりは観察者問題へのひとつのカウンターである。また「研究」による現場介入の問題としても、さまざまな例が存在している。ひとつの例としては、農学者vs人類学者というのがある。畑に畝をつくるというのは農学上の大転換である。表土が流れやすい地域で耕作をしている人にとって、畝づくりによる収量向上は大きい。農学者であれば、畝のない地域に畝づくりを教えることに躊躇しないだろう。しかし人類学者は、大転換の技法であるからこそ、それがどう開発され、どう伝達されるかを知りたい。彼らの中には、畝づくりを教えることをよしとしない立場もある。どちらも間違ってはいない。学問的な信念に忠実な行動だ。しかし根本的にすれ違っている。双方が「研究」の立場であり、だからといってそこに摩擦がないわけではない。最近ではアクションリサーチという手法も一般化してきた。
書いているうちに論旨がついあっちやこっちへいってしまうが、氏がざっくりと「研究」とまとめたなかにも多様な実情がある。「研究」だからどうだ、という風にジャンルに棚上げしてすまされる問題ではないのだ。学問分野を問わず、まじめな研究者は己の研究の持ちうるメタレベルの罪深さと格闘している。多くは罪深さにただ恥じ入るのではなく、罪深さを背負って取り組んでいる。氏の書きようは、腐女子としての矜持ならぬ研究者としての矜持について無頓着ではないだろうか。諸賢の判断を仰ぎたい。
上にひいた部分のあとにはこう続く。

また、文化相対主義に徹するのが正しいというわけでもない。因襲ゆえにそこでひとが死んでいくのに、
それを文化相対主義の名のもとに、ただ見ているのが正しいのか? という話です。

この疑義には同意する。文化相対主義は万能ではないというのは自分の常からの主張でもある。しかし、今回の事例にこのマニフェストはあてはまるだろうか。逆説的に、そこでひとが死なないくらいの因襲ならばそっとしておいてやろう、というのが文化相対主義ともいえるが、腐女子の卑屈さによってだれかが死に等しい苦痛をうけているのだろうか。一般的な話をしているのではない。ある人のある行為に対する言明からはじまっているということを忘却してはならない。emifuwaさんの一腐女子としての言明が、誰かに対して具体的な抑圧としてはたらいているのか。goitoさんの、そんなに卑屈にならないで、という呼びかけが、誰かに対して救いとなったのか。甚だ疑問である。軽々に文化相対主義などという術語を持ち出すべきではないと思う。
さて、この一節につながるきっかけとなった友人の某研究者氏による寸評を見てみよう。

「伊藤さんは頼まれもしないのに離島に行っちゃう医者みたいなもんだよ。
そこで『私は人を診ない。病気のみを見る』という態度でいればトラブルは起きないのに、やれ栄養を取れだの風呂に入れだのいったり、
衛生的ではないからといって、ヨソの家の井戸を直したりして、でも後になって元のままのほうが実は合理的だったということに気づくような」

これはなかなかうまい評だと思うのだが、どうもgoitoさんの反応を見ていると、後段のでも後になって元のままのほうが実は合理的だったということに気づくようなの寓意が伝わっていないのではないだろうか。