ムラ社会

エセ同和みたいにエセモヒっていけるんじゃないかなあ。「ネット世界ではそういうの通じないんだよーん。hehehe」とか、ネット世界の特殊性にあまり注意していない人にいやがらせする行為。エセ同和とちがって利権構造を思いつかないので、エセモヒを気取る価値が思いつかないんだけど。「ネット世界に即していない」とか言って糾弾会するとか? “めんどくさい人”という風評は確立できるだろうな。ただ、同和の人はエセ同和を追い払ってくれるけど、真モヒの人はエセモヒを追い払ってくれなさそうなのがポイントだね。
別のところでも書いたけれど、mixiにおけるKusakabeさん問題*1ムラ社会におけるモヒ問題ととらえる構図にはちょっと首をひねっている。モヒカン族というのがスタイルに対する形容であるのに対し、ムラ社会という言葉がスタイルと組織形態の2種類の意味を持ってるために、つい混乱してしまう。というのは真のムラ社会は単純な排除の論理で回ってないから。ここでいう“真のムラ社会”というのはモヒカン族定義によるムラ社会*2とは独立して、現実の田舎の暮らしととらえてほしい。真のムラ社会では、仲間に入れてもらうのに時間がかかるけれども、一旦内部に入れてしまうと容易にそこから排除することができない。村八分という行為の悲惨さは、仲悪いのに10のうちの2はつきあいがつづくということにある。ムラというのはさまざまなしがらみで絡み合った共同体であり、そこには職業や生活や交友などあらゆる人間関係がつまっている。したがって成員が少々おかしいとしても、そのおかしさが“空気”の範囲内で収まっている限り、切り捨てることは難しい。めんどくさい人だけど、先祖代々の隣だからつきあわざるを得ない、というのが真のムラ社会なのですよ。
騒動をおいかけていると、Kusakabeさんの特異なキャラクターは、(1)一定の人に許容されている、(2)一定の人に拒否されているという2つの受容があることがわかる。前者はfjなりなんなりからつきあいが長く、彼のキャラクタについて「困ったところもあるけど有効なところもあり総体としてはそーゆーもんだ」と認識している人。後者は今回は料理コミュに端を発するグループで(ただし料理コミュ全体ではない)「なにあれ。信じられんない!」と認識している人。真のムラ社会主義者である自分からすると、(1)はモヒちゃんっぽい人の集合ではあるが、それはそれで一つのムラであり、(1)の人たちはムラの成員としてKusakabeさんを許容していると解釈できる。そしてこの騒動の発端は、Kusakabeさんがムラ(2)のイニシエーションに失敗したことにあるのだけれど、ムラ(2)が内部で処理せずに上位組織であるmixi運営の御白洲に訴え出たことで、文化についての裁定を求めたようになってしまい、さらに運営がムラ(2)の価値観を認めたために、今やムラ(1)とムラ(2)の文化の衝突になってしまった、んじゃないかなあ。文化戦争になってるからそりゃ揉めるよね。
文化戦争には決着が付かないので、お互いがお互いを認めて妥協するしかないのだけれども、そううまくはいかないのが世の常ですな。個人的には文化多元主義を好んでいるけれど、「うちの家風にあわないので」って言われちゃうとどうしょうもない気もするね。