マンガ編集者と普通の会社員と

昨日のつづき。
昨日の記事を書いた動機は、「話題になっている編集者は会社員としてもレベルが低いんじゃないか」ということを言いたかったから。自分はマンガ編集業じゃないので、マンガ編集業が通常の企業の会社員とどれほど隔たっているかはわからない。でもマンガ読者ではあるので、マンガ編集業になにか特殊な業種特性があるというのは理解できる。昨日の記事は、だから、話題の編集者を会社員的視点から擁護しようとしたものではありません。そうじゃなくて、話題の編集者の人たちはマンガ編集業(それは会社員的資質とは別の、なにか特殊な技能が必要な技能職)としてダメなだけではなくて、ごく普通の会社員(大卒で名の知れた株式会社に勤めて数年の経験を持つごく一般的な“社会人”)としてもダメなんじゃないですかと言いたいわけです。もっとシンプルに言えば、「会社員なめんな」ということ。
なんでそういうこと言いたくなったかというと、なんかマンガ編集業という業種の特殊性が現代若者気質の会社員にはなじまない、という論調をたくさん読んだから。それはそれでたぶんそうなんだろう。というか前述のようにマンガ編集業ではないので、そういわれればなるほどなあというくらいで反論もなにもない。けれどそういう俯瞰的な視点の議論はびしびしやっていただきたいが、でも、ここで出てくる事例って、そもそも「会社員」としても質が低すぎるんじゃないか?と気になった。だって、良いものを作るために無理を承知で無茶を言い、それをなんとか聞いてもらうという業務は、マンガ編集業以外の企業でもないわけではない。納品元業者に足しげく通って、ダメだししたり励ましたり時には怒ったりしながら、土日祝日なく公私共につきあって、納品されてくる物の品質を必死で高めている製造業品質管理者とか商品開発バイヤーというのも世の中にはいるわけです。話題の編集者の人たちは、地方の老舗頑固弁当屋を誠心誠意口説いて物産展に招聘するみたいなミッションも勤まらないだろうし、精度を現在の納入物よりもなんとしてでも向上させなければならないとネジ工場に発破をかけに行く品管担当も勤まらなさそうだし、アパレルの企画部門担当者とかも勤まらないんじゃないかなあ。

もちろん、表現者は経済的動機以外が優先することが多いであろうから、製造業者よりは人間関係の構築が難しいというか、ある種の狂気があって大変ということは十分あるのだろうと思う。けれども、どうも本件の経緯を見ていると、話題の編集者の人たちへの怒りは、作家性とか表現者とかクリエイターとかいう高次の次元だけでもなくて、「人としてどうよ」という部分に集まっているような気がするんだよねえ。
そういうわけで、マンガ編集業を会社員から分離するという議論にはまったくもって賛成する一方で、マンガ編集業の一般企業は、もう少し自社の社員教育をちゃんとしたほうがいいんじゃないかと思った次第。マンガ編集業に必要不可欠な職業要件が特定化されていなくて、会社員としての編集者(つまりそれは代替可能性の高い編集者)のための教育訓練を行うことができていないことも、今回の問題を大きくしたような気がします。

 小学館提訴の話

今週はずーっとこの話を追っている。いろいろな立場からのいろいろな感想がいろいろと面白い。
当事者間の感情的行き違いについては、まっとうな大人はコメントしてもしょうがないと思うようで、ビジネスモデル的なことに目がいってる論調が多い。実際、話を深刻にしている原因はそこにありそうだし。出版社の社員編集者が公私を投げ打って作家に尽くすというビジネスモデルは破綻しつつあり、エージェント機能を強化した方がいいんじゃないか、とたけくまメモ(2008.6.13)で読んだ。似たような論調は多のブログでも見かける。非常に納得すると同時に、違和感がある。
だって原稿をなくすのは会社員としておかしいよ?あと漫画家を激高させているのもおかしい。本件を会社員としてみるならば、その取引先との関係が崩れたら自社商品がなりたたないというような取引先をしくじっているということになるのでは?サンデーからマガジンに漫画家流出しているのは、特許を持っている取引先をしくじって、競合相手に鞍替えされたということに近いんじゃないでしょうか。担当者の個人の力量のせいで、そんな事態を引き起こしたら、顛末書どころじゃないでしょう。懲戒になってもおかしくない気がする。
つまり、ここで話題にされている社員編集者は編集者(目利き&漫画家育成者)として技術・意識が低いだけではなく、会社員としても品質が低すぎると主張したいわけです。そもそも契約を結ばず仕事を始めているとか、よく分からない名目で一社に囲い込まれるとか、漫画出版業という業界の経営品質そのものが低すぎるのではないか。だいたい原稿の納品がないとまわらない産業なのに、納品後のなくす保管状態って、内部統制的にどうよ。非上場企業だからSOX法に関係ないからいいのか。でも会社法的には善管注意義務にひっかかるんじゃないか。
出版社は言論の自由を守るため上場しないとよくいうけど、この現状だとたんに会社のレベル低いから上場できないだけじゃね?って思ってしまうな。企業は社会の公器という最近の経済界の流行からすると、ありえないマネジメントの現状だと思うし、いったん資金繰りにショートした場合、こういう状況だと資金調達しにくいだろうなあ。
というわけで本件について、ビジネスモデル破綻を語る際には、「会社員が“編集”することは無理」という表現の使い方についてご一考いただきたい。今話題になっている“編集者”の人たちは、ふつうの企業ではたぶん、会社員としてもつかいものにならないと思います。

 秋葉原通り魔事件は携帯でネットワーキングすることの難しさを示している、という考え方もあるなあ

http://d.hatena.ne.jp/KoshianX/20080611/1213197701

くだんのケータイ向け掲示板は、2chほどの住人はいなかったようだ。ぽつりぽつりと容疑者の発言とおぼしきものだけが、連なっている。多少声をかける人もいたが、一人か二人程度で、容疑者の心を変えるだけの勢力にはなれてなかった。

これが2ちゃんねるなら、こんなことはなかったんじゃないか。少なくとも>>1の発言がその他より多いなんてことはなかったんじゃないか。ケータイ人口はPCの人口に比べてけた違いに多いが、その実アクティビティはたいしたこと無いのかもしれない。2ちゃんねるが特別すぎるだけかもしれないが。

なるほどなあ。実際、ちょっとライトにかつ深刻に落ち込んでいるときに、2chの人生相談系の板を試してみたら、結構気持ちよかった経験があるよ。ネットには人を誹謗する人間がいっぱいいるが、同時に励ましたがってる人間もあふれているとよく感じる。ちょっとしたボランティアというか少ないコストでいいこと気分。
話がそれるが、こういうのは偽善じゃないと思う。むしろ怠惰。誰かの役に立ちたいし、世界をよいものにしたいけど、具体的行動を起こすのはめんどくさいというスタンスだね。自分のことだけど!
まあそれはともかく、加藤くんも無責任な母集団の多い壷にめぐり合えれば、もうちょっとああいう事態を引き起こす期待値は低かったのかもしれない。少なくとも、そう考えることはなんとなくしっくりくる。となるとここから導き出せる教訓は、「携帯食い詰めて死にそうなときでも2chへのアクセスがあればなんとかなる」ということなのかも。
でもそれよりなにより思うんだけど、これって、小中学生の学校裏サイトとかネットいじめの件と一緒だよね。携帯ネットワーカのタコツボ化。自分は以前から、世界につながる端末を介してなんで学校社会の狭さを増幅させるのか、と思っていたのだけれども、携帯のネットワーキングは知り合い強化ツールであって、無窮の天地への窓ではないということなのね。
結局どれだけ軽快なブラウザが入っていても、携帯サイトにしかいかないからこうなるのか。それとも、2chみたいな広く浅く人が集まる携帯サイトがないだけなのか。いずれにせよ、もしかしたら技術的に軽減できる孤独感なのか?と気になる。

 非モテは不幸ではないけれど、非モテを原因に人を殺めたりすることは不幸だ

秋葉原の通り魔の話ね。
携帯掲示板に残されたメッセージとやらを見るにつけ、すっげー非モテっぷりだ、としみじみしてしまった。新聞報道とか見てると、社会への不満がどうこうと表現されているが、おどろくほどにいろんな不満のオチが非モテに結びついている。「派遣労働で身分が不安定…なうえにカノジョが居ない」とか、「低賃金のために毎日あくせく働いている…にもかかわらず、ろくに働いていないニートにカノジョがいる」とかとか。
彼が声なきワーキングプアの代表だというならば、気分転換に男女交際を流行らせるというラテンアメリカっぽい施策こそが正解に違いない。愚民サイドとしても、同じ国内不満のガス抜きとして誘導されるなら、隣国へのネット攻撃よりも、軽はずみな恋愛とセックスの方が楽しそうに思える。日本をラテン化するという森永卓郎ビジョンに対して、早く政府は具体的施策を立案するべき。
とはいえ無配慮な自由貿易は南北格差を激しくしてしまうように、無制限な自由恋愛振興も有益とは思えない。WTOみたいに、正当な自由恋愛のルールを決定するための中央調整機関が必要なのではないか。早期の建立が待たれるね。