書店のファスト風土化とな

先日、本屋(三省堂書店)行ったときに驚愕した通りすがりの若い女子のお言葉。
三省堂書店ってなんなん?」
「だってアタシにとって本屋って、○○書店とツタヤの2軒なんやもん」
ご友人「あんた世界狭いなー」
「だって、アタシの生活はその2軒で十分なんやもん!」

えーっと○○書店は関西の地方書店チェーンです。四国で言えば宮脇書店とか明屋書店みたいな感じの。urouroさんはわけわからん全国大型チェーンがえらそうに目抜き通りのニュービルディングにに展開している状況に対して、パンクな反感を見せる彼女をうつくしいと思いました、が、同時に、
『頼むからお前のパンクのよりどころをツタヤにせんといてくれーー!!っていうかツタヤを本屋いうな!!!』
という叫びを飲み込むのに必死でした、と。

 生きている音楽家のファンは幸せだ

まともに新譜を出るたび買い続けている唯一ならぬ唯二の音楽家RIP SLYMEとSoul'd Outの新譜が暮れから新年にかけて出た。しかしこの「音楽家」という表記はなんとかならないのか、われながら。自分としてはごくごくふつうに「うたうたい」みたいな形で表したいのだが、両者の演奏というか表現形態は「うたうたい」とか「バンド」とはちょっとちがう。そして自分は「うたうたい」とか「バンド」か表現しえるはずのモノに「アーティスト」という表現を使うのは好きじゃない。なので折衷案としては「音楽家」くらいしかないのだが、まあでもそれもやっぱりちがいますね。困る。
で、その二者の新譜を半年たった今でもじみじみと聴いているのだが、どっちも結構気に入っていて、最初はリップのほうはいまいちだなあと思ってたけど、ずっと聞き続けてたらだんだんよくなってきた。目新しくはないと思うけど定番のよさがある。ほめています。S.O.はいつもどおり言語感覚が完全に崩壊しているのがスバラシイ。これもほめてます。多くのS.O.ファンはどのように愛しているのだろうか。中居くんのファッションについては目をつぶってしまうジャニーズファンの愛もこんな感じなのだろうか。
そんでそれなりに満足してAmazonのカスタマーレビュー見に行ったら、くっきり評価がわかれていてですね。S.O.があんまし評価されてない。RIPはなかなか評価高い。なんかこういうズレってとても興味深い。断っておくが自分の音楽的審美眼には最初から自信などない。むしろ低い。だから専門家の評価とずれても別になんとも思わない。でも同じ思いをもつ人の書いたものを読んで、含み笑ったりひとりうなずいたりしたいわけで、それは結局のところ、消極的につながりたいわけなんだけど、評価が低くてつながれなくて、ちょっと残念だったり、デモなんでそうなるんだろうと思ったり。
という経験をしながら思ったのですが、「大して評価の高くない作品」をわくわくしたりどきどきしたりしながら聞いたり、感想書いたり、感想見に行ったりするのって、生きてる音楽家のファンにしかできないことですよね。ちょっと前、70年代英米ロックを聞き始めようとしていたんだけど挫折した原因はそんなところだと思った。自分のような「ナニカについて書かれたもの好き」の人間にとっては、時の洗礼を受け、『○○にとっ最大の駄作』のような世評が定着している場合、どうしてもソレに手を出す気持ちが鈍る。たとえその後に『・・・と一般には評されるが筆者にとっては最愛の一枚だ』みたいなのがくっついてたとしても。それは修行であって、なにかをプレーンに鑑賞するという態度ではない気がするよ。有限の時間と資金という制約のせいかもしれないけれど。
すでに評価の定まったナニカについて、フレッシュな気持ちでどきどきわくわくすることは本当に難しいと思った。だから、音楽家だけじゃなくて、すべてのartにおいて、生きてる作家のファンは幸せだと思う。まー逆に、一定以上の品質のものだけを選択して味わえるという意味では、死んだ作家のファンのほうが幸せかもしれないけどね。

 IT技術は人間を進歩させたりしないし、むしろ新しい醜さを世の中に付け加える。だけどまあ、それが人間と技術の面白いところだとも思う。

もう歴史的事実なのかもしれないけれど、その昔、ブログ騒動というのがあった。「ブログ草創期を語るときに外せない存在」騒動だ。なんてことを何でいまさら思い出すかというと(ごめんねしつこくて)、某社の公式ブログで社員が社長と企業理念を素朴にほめたたえるエントリーを投稿しているのをみたからだ。
ここで某社と書いてごまかすのは持ってまわってあてこすっているわけじゃなくて、ごく単純に、書いちゃうと実生活に差し障るからだけど、実際には個別具体の事象とは思えないので、あなたの思いついた社名を好きなだけ入れてください。まあ誤解を恐れずにいえば、カリスマ経営者がやってる歴史の浅い社員数の少ない企業にありがちな気がするよ。
ブログ騒動ってなんだったんだろうか。あの頃、自分がもどかしく思ったのは、「いや、そんなんブログとか技術で語らんでも、そういうネットワークってもうあるやん!」という気持ち、つまりあるコミュニケーションのあり方を大発見みたいにいう言説への当惑と当時の個人サイト軽視が垣間見えるかに思えた態度への素朴な反感にあったのだが、そんな当時の自分の感慨自体が今では時のかなたで陳腐化してしまったようだ。資本主義は世界を変えるね。
実際、小規模な事業体にとって、いちいちナニカしなくとも情報を発信できるブログツールの便利さってすごく大きい。ナニカというのは例えば技術者にウェブページを作ってもらうこととかデザイナーに発注することとかサーバ管理部門にアップしてもらうための手間とかそういうことだけど。できるだけたくさん情報を発信することで、事業体やその商品への共感を高めてもらって、より有利になろうというのはマーケティングとして素直な発想だし。テクノロジーの利用方法としてよくわかるんだけど、それでいて、もぞもぞしてしまうのはやっぱりブログ騒動をしつこく覚えているような性格だからなのかもしれない。インプリンティング
とにかく小金持ったおっさんが自意識を垂れ流したり、それに対して恥ずかしげもなく内輪褒めを全世界公開で展開したりする未来をめぐって、当時、ネット言論界隈(笑)が炎上していたのかと思うと、いやまったく。