書き手の自称の問題その2

http://d.hatena.ne.jp/urouro360/20040327#1080387346で簡単に書き殴ったことに、当ダイアリ始まって以来の多くのコメントを頂いたので、うれしくなって追記します。自分は結構、人と関わりたがりなので読んでもらったりコメントもらったりアンテナに入れてもらったりリンクしてもらったりすると、ほんとうれしくなっちゃうんですよ。もちろん、そうでなければはてなダイアリなんぞやってないんでしょうが。
さて本題。気になったので「新現実vol.2」のその他の評論、正確に言えば小説と対談と講演記録以外の文章の自称をチェックしてみました。
福田和也−「私」・大塚英志−「ぼく」・鎌田哲哉−「私」・大澤信亮−基本的には非人称。一部に「僕ら/僕たち」・ササキバラ・ゴウ−「私/私たち」・荷宮和子−「私」・武田徹−基本的には非人称。不可避なところは「著者」・信田さよ子−「私」・五十嵐太郎−基本的には非人称。不可避なところは「筆者」・澁川修一−非人称。一部に「我々/私」・宮本大人−「非人称」
ここであげた一覧では、評伝だったり評論だったりエッセイだったりとテキストの性質が全然違うものを無理矢理「自称」というひとつのトピックで比べているわけだから、はっきりいってあんまり意味のない行為です。とはいえ、自覚的に読んでみると、「私たち」や「僕たち」という自称はないわけじゃないんだなと気づいたのは収穫でした。
しかし、非人称や単数形との併用がある中での、自称が複数形の他の文章には、佐藤論文に感じたような強烈な違和感を感じることはありませんでした。いくつか理由があります。一つ目は大澤論文や澁川論文がそうですが、「僕らの時代では」といった用いられ方の、なにか自明のことを読者と共有するための確認としての複数形。読んでて違和感がないしレトリックとしてもよくあると思います。二つ目は、コメント欄でのid:Brittyさんの表現を借りるなら「力瘤系」の複数形。「私はこう思う。これは私たちの課題である。」という風に、ここぞというところの強調です。ササキバラ論文などがこれにあたります。これもそんなに違和感はない。
それでは非人称と「私たち」の併用に思える佐藤論文の、どこに違和感を感じてしまうのでしょうか。昨日の引用部分は、実は佐藤論文の冒頭にあたります。つまり佐藤論文は、いきなり「前回私たちは〜」と始まるのです。これがどうも、自分にとっての違和感の大きな理由のように思います。昨日この一節を読んだとき、びっくりして思わず表紙に戻り、著者名を確認しました。作業をしているのは誰なのか。作業をしているのは「彼」であって、「私」ではない。「彼」が行った作業から得られた結果を「私たち」で考えよう、というならわかるのですが、作業の主体にまで「私」を組み込もうとするところが違和感なのですね。特に、vo.l2だけの読者である「私」にとってみれば、「前回」は当然経験がないわけで、「前回私たちは〜について論じた」と言われても、形而上的にも形而下的にも「私」は論じてなどいないのです。「議論を満足にすすめる枠組みを持っていな」かったり、議論のための「課題を設定した」りする「私たち」とは誰なのか。
ところで昨日のコメント欄では、自分は、佐藤論文における「私たち」の濫用は、著者の無意識の結果であろうと推定していました。しかしながら、今回再度精読してみて、脚注部分に以下のような自称を発見します。

(注1)例外は「暗転」である。筆者の考えでは「空」はやはり特権的な
    グラフィックに含めるべきだと思われる。

<オートマティズムが機能する2:佐藤心新現実vol.02 カドカワムック178(2003):pp250>

ここでは、「私たち」から独立した「筆者」が登場しています。なにゆえここのみ「筆者」であるのかは考えません。ただ、この部分は、著者が「私たち」と「筆者」を等しいものとして用いているわけではないということの傍証といえるでしょう。となると、著者はなんらかの意図をもって「私たち」を多用していると言うことになります。正直自分には彼の意図は汲みかねますが、読者を自動的に議論のテーブルに着かせるつもりであるのなら、少なくとも自分は、強烈な違和感と疎外感を感じただけに終わりました。また、複数の文章から自分の文章を目立たせるフックのつもりなのだとしたら、その意図は成功していますがあまりに成功しすぎて、フックでしかない部分が気になって気になって本論自体まで思いが至らなかったと感じました。
うーんだからまとめとしていうと、自分がどうにもひっかかっていた「私たち」の多用は、論文修辞技法の一般的問題ではなくて、佐藤氏の自意識の問題というか文章上の効果の問題なんだろうなということで。