リットンさん

水曜日深夜、松紳とかいう番組を見ていたらリットン調査団がネタをやっていた。たしかオールザッツで見た、消火器の精ネタ。オールザッツのヘンなテンションで出たときは結構受けてたのに、昨日の番組では全然うけてなかった。っていうか、寒い芸人のサンプルとして出てるわけだからうけなくて正解なんだけど。なにがいいたいかというと、そんなもんだなという話。リットンはカルトの元祖!みたいな、映画でいうところのエド・ウッドみたいな取り上げ方をすれば、これをおもしろがれる俺様、という客がつくし、これから寒い芸人がでますよ、言い渡されればそれをあえてうける客は少ないだろう、というくらいの芸人さんなのだ、つまり。ヘン好きの自分は、今回も十分面白かった。また、バッファとかの系譜を喜んでみていると、リットンの位置づけがなんかへんになってるというのを改めて確認した。自分の中ではケンコバの手本のバッファの手本のリットン、という位置づけになっててなんかものすごくリスペクトされている。今読めば全然ぴんとこなヴァン・ダインとかを本格の祖だから、と格付けあげてしまう感じ。だから正直今回のように、とんでもなく寒い芸人がでますよ〜のふりでリットンが出てくるとすごく驚いた。え?リットンさんは知る人ぞ知るカルト芸人じゃないですか?と思った。
だけどネタ終わって、紳助が「そりゃネタづくり楽しいやろうな、ダメだしゼロやもん!やりたいこと全部入れてるやん!」といい、松本が「訪ねてくる消火器の精がツッコミって!」と評したのが、ものすごーく興味深かった。そうだよな、お笑い表現としては全くその通り。客への伝わり方を計算してないし、ぼけとつっこみの連携についても無頓着。リットンさんは自分たちが面白いと思うものしかやってないし、それをおもしろがれる客を必要とするタイプの芸人さんだ。だから普遍的に寒い訳じゃなく、客層が狭いだけなんだろう。ビジネスとして、あるいはプロとして笑いを考えれば当たり前におかしい。やるべきことをやってない。売れなくて当然。
だけどなんなんでしょうねリットンさんは。ビジネスとしてペイすることを目指して己を曲げることを拒否する表現、というのは、たとえば漫画や小説や音楽では可能だろうが、芸人にそういうのが可能なんだろうか。なんだろうかって彼らは現にそうしてるわけですが。内的な情動の表出としての漫画や小説や音楽。これはわかる。これらは結局一方通行でも成立するのだ。だけど笑いはそうじゃない、と思う。その表現を「笑って」もらわなくてはならない。観客と観客による対象化が必要なのだ。そんなフィールドでやりたいことをやるっていうのはいったい何なんだろう。客が芸人を育てる、の逆で、芸人が客を育てているのだろうか。たしかにある程度量を観れば、どこがおもしろいかという面白がり方は体得されてくる。けれど体得されるまでの退屈を、客はどうやりすごすのか。また、訓練を経てまで面白がりたいと思う客もなんなんだ。
振り返ると自分自身は、あからさまなくだらなさが好きでリットンさんとかを消費しているように思う。くだらねー、といいつつ喜んでいる。だから我を忘れて大笑いする、という経験はない。一旦、くだらないと失笑した後に、このくだらなさが面白い、というように消費しているようだ。ということはメタレベルの消費なんだろうか、これは。
よくできた漫才とかコントにはカタルシスがある。うまい芝居を観たような、一連の流れがありきれいな終わりがある。あるいは逆に、そういう笑いの表現をうまいと感じる。つかみがあって小さいネタのリフレインがあって盛り上がって大団円。自分の中のオールタイムベストは、ジャリズムのコント(がんばれサポイくんとか葬式DJとか)だが、最近ではフットボールアワーとかドランクドラゴンとかうまいなあと思う。だけどリットンさんとかバッファにはそういう感覚は覚えない。この人たちはなんでこんなバカバカしいことを思いつくんだ!という呆然とか、なんてくだらないんだ!という衝撃はある。するとやはり、演じられる表現と自分はちょっと突き放した位置関係にあるのか。自分はメタレベルで笑っているのか。うーん、笑い表現のポストモダンとか言えるのかなあもしかして。彼らの笑い表現には、客を引き込むためのシークエンスとかしかけとかが一切ない。突飛な世界設定と折り込まれる種々の引用。多くはプロレス、アニメ。知らなくても面白いし知っていてもそう面白さが変わるわけではないけれど、とにかく突然何の断りもなく挿入される固有名詞の群れ。これをメタでなく面白がれるって可能なんだろうか。彼らはメタな消費を目指しているのだろうか。