「プロ奴隷」の言語感覚

自分は思想信条的にはいわゆる左翼というかリベラルに属するのだが、古典右翼に比べて古典左翼はどうもかっこわるいという気が最近している。ネット右翼と左翼ならさらにその差は広い。なかでもネット左翼はどうして言語感覚がだっさいんだろうか。今日はいろいろ見ていて「プロ奴隷」ということばの鈍くささにくらくらしてしまった。
もちろんこのことばは「プロ市民」の対語である。しかし「プロ市民」ということばの切れ味にまったく及ばない。「プロ市民」ということばを初めて見た時はあまりのうまさに腹を抱えた。古典的な市民運動の主催者を見ていて、よく頑張られるナアすごいナア、生活大丈夫なんかナアと思っていると、職業:団体職員だったりして、なんだ専従の人かーと思う経験はよくある。えーと一般にはないかもしれないけど、自分の生活環境ではよくあった。市民運動に心情的肩入れしつつも日々の雑事のために没頭できない自分としては、このような団体専従、現在で言えばNPO職員などの人々が運動の中心を支えてくれることはまことにありがたい。NPOもピンキリだが、素晴らしいところは実に素晴らしいし、そのような存在に対しては敬意を払いたい。しかし、そういう思いとは別に「プロ市民」ということばはうまいこと言うなーと感じたのだ。市民運動を嘲笑する輩が使いがちので、ことばに張り付いたイメージは悪いのだが、単純に造語としてみると、こりゃなかなかうまいことばですよ。専従っていうよりプロ市民っていうほうがかっこいい気すらする。
それに比べて「プロ奴隷」ってなによ。アマチュアの奴隷なんてあるかっつーの。奴隷にあやまれ。ごく一般的な、社会大多数を形成している「市民」の代表として現れながら、その実、政党職員とかってところが「プロ」なのであり、「プロ」と「市民」の落差がことばのキャッチーさにつながっているのに、それを「奴隷」に交換しただけでどうする。もっとこう、あるじゃないですかいろいろ。ってうまく言えないんですけど。ごめん。でもたとえば匿名掲示板とか、匿名とか言いつつネット右翼暗躍みたいで、とちょうど逆の感覚やん。この辺のあたりをチョイチョイつついたらうまいことなるんちゃうん?
たかがことばと侮るなかれ。こういうことばのキャッチーさ・イケテルっぽさや、団体行動の楽しさ・お祭り気分をうまくとりこまないと、団体としての活動は衰退する。大学紛争なんて祭以外のなにものでもないじゃないか。教条的でなく、ヒステリックな感じでなく、なんとなく楽しそうとかそういうところをうまくすくわないとただのカルトになってしまう。
とはいえ本質的にはレッテル貼りにレッテル貼りで対抗するなんてアホらしいことである。「プロ市民」ったって、リベラルからみてもあやしいようなやつから極めて真面目で尊敬できるものまでいろいろあるわけで、十把一絡げにされるほどしょーもないことはない。そういう思考停止を相手にする必要もない。レッテル貼ってる側にしたって、真面目に議論したければそんなレッテル不用意に使わないだろう(ことばとして面白いために、つい使っちゃう可能性は高いが)。だから対抗レッテルを考えたり、それを広めようとあえて使う態度自体がどうかと思う。どうかとは思うが使いたいならしかたがない、使えばよろしい。けれど語りの泡からぼかっと浮いてでてきたようなパワーのある造語に対抗するのに、もうまったくお前5分ぐらいしか考えてないんちゃうんかといいたくなるような安易なことばで対抗してはいけない。傷を深めるばかりだ。そのあたり、やる以上は細心の注意を払っていただきたいと願うのであります。