知らん間にオタクが死んでた

オタク死んでたんですね。urouroさんが会議とか出張とか経費処理とかしてる間に。油断ならん。数年前の夏に屋台で買ったひよこがいつの間にかとさかもばっちしな雄鶏になっていた…と思ってたら死んでた!、みたいな。生の反応もひねった反応も反応を分析する反応もメタもメタメタももう出尽くすくらい死んでから間がたっていることに笑いました。そんな有名な方が人知れず亡くなるなよ。アンテナはってないとひっかかってこないなのかよ。どーでもいいけど「オタクが死んだ」だと「has died」じゃない?「is dead」って「オタクって死んでたんだね」ってかんじ。つまりもう腐乱してるくらいの印象ですな。
久しぶりにうろうろして印象深かったのはここ。
http://d.hatena.ne.jp/umeten/20060528/p6

岡田斗司夫という人物は、「オタク・クリエイター主義」に対抗して「オタク・消費者主義」を打ち出していたと思われていたわけだけれども、その実態は、決して「一般消費者階級出身のエリート」などというものではなく、むしろ、まさしく生まれながらの「文化エリート」であったということ、全ての発言はそこに源を有していたのだということです。

オタクハイカルチャーvsオタクローカルチャーってことなんすかね。生活を召使いに任せて勤しむオタクカルチャー。消費のスタイルの問題なのか。でも文化資本って一番、蓄積/継承されにくいんだよね。
ちょっとヴィトンとかグッチを持つ貧乏人の話題を思い出した。なけなしのお金をはたいて並行輸入店でお値打ち価格で買ったヴィトンってなんともいえない貧乏くささがある。購入者にとってはファッションアイテムじゃなくてお宝だから、なんにでもそれをあわせたりしちゃって、それがまたピーコに怒られるくらい情けない。生活のレベルのなかで悠々と使いこなせないなら無理にヴィトンなんて持つなよ、と思ったりする。けれどもその一方で、つらくしょーもない仕事を安い給料でしている誰かが、毎日こつこつ貯金して、“あといくら貯まったらナントカが買える”という風に日々を生き延びるささやかな楽しみかつマイルストーンにしているというのは崇高な感じがする。そういう消費の仕方を否定するのが文化ということなんだろうけど、そういう文化の傲慢さに対しては、所詮金で買えるモノのくせにえらそうにいうなよボケ、と言いたい。でも金で買えるモノが全てでもないんだよね。
さてこれがオタク論と関係あるかないかというとどうだろう、まさに雑感ですね。