本屋にいくとつい時間がたってしまうのは本が好きなせいもあるけど、こういうくだらないことを懊悩しているからでもあるのだろう

おでかけして本屋。とある店の店頭で、文芸>ミステリーのコーナーでかなり悩む。山口雅也のキッドピストルズ最新刊は買わねばならぬが、部屋が狭いと単行本を買うのに勇気がいる。徹夜して働いて一定の給料あって、でも使い道は本とマンガと酒と食。しかもどれも高価なものは好きじゃない。というか金額に見合う価値を見出せない。だから思い切った買い物のつもりでも、本屋であれば、単行本のミステリーを買うくらいで、あー自分ってしょぼいなあーとか思いつつも、でも、値段を見ず単行本を買える幸せのために労働しているなどとつつましいことを思う・・・・とまあ、そういう暮らしをつづけていたら、ハムスターのねぐらみたいに家が本だらけになっていくわけで。
しかし。しかし山口雅也。しかもキッドピストルズ。これは買わないとしかたないよねえ。でもなー。単行本ってなー。
そもそも資金が潤沢で家が広くても、単行本は苦手だ。寝転んで読みにくく、かばんに入りにくく、片手で持ちにくいのがつらい。それに比べて文庫本の素晴らしさときたら。もし今、突然、ペーパーバックの国に飛ばされたらきっと呪うと思う。自分は読書家ではあるが愛書家ではないし、平気で床に積むし、風呂に持ち込んだりするけれども、平綴じの背にしわが入るのだけは我慢ならないのであります。アー文庫本って本当に素晴らしい。
というわけで、文庫本の素晴らしさに思いをいたしていたら、ちくま文庫高島俊男先生「しくじった皇帝」を持ってレジにならんでいた。どこへいったキッドピストルズ
久方ぶりのキッドピストルズには支持者多いだろうからまあいいか。
とかなんとかいいながら本屋を歩いていたら、「京都水無月大賞」とかいう表現を発見して大変に驚いた。自分は本屋大賞とか“書店員が選ぶ〜”とかそういうのが嫌いで嫌いで、なるべく本屋大賞の時期は目を伏せて歩いているのに、そうか賞を増設するという戦法に出てきたかくそ、とものがなしい気持ちになった。
本屋の経営が大変だとか本が売れないとかそういう話はよく聞くし、本屋さんという場を愛する人間として、本屋の若い衆が頑張っていることは応援したいと思うし、それよりなにより一生懸命やっている人に一方的にけちをつけるのが人としてよろしくないのは分かっているのだが、どうも好きになれないのである。
以前にも書いたが、本当に昨今の手書きPOP流行には辟易としている。実際にはすべてのPOPがダメなわけではない。自分にとって良いPOPとは内容の簡潔なダイジェスト(しかも面白そうなダイジェスト)で、悪いPOPとは感想文主体のやつ。泣けます!とかそういうの。好きな作家や小説に、自分の実感からすればまるで見当違いの感想?レコメン?みたいなのが付せられていると、とてもものがなしくなる。なぜ読み方(解釈の仕方)を押し付けようとするのだろうか。ワクワクします!とか泣けます!とか、余計なお世話じゃないのか。悲惨な話をげらげら笑いながら読んだっていいじゃないか。「これ使いやすくておすすめよ、私も愛用しているの」と鍋を売るのはかまわんが、同じ論法で本を売らないでほしいなあ。小説は機能を売っているわけじゃなかろうに。古本屋みたいに完全に忘れられた入手困難な本に手書き帯つけて解説、みたいな感じならまだわかるんだけどなあ。新刊本屋で最近出版されたそこそこ著名作者の大手出版社から出た著作物に、ダイジェストではなく自分の感想主体のPOPつけるのは、自己表現欲求であって営業意欲の現われではないんじゃないかね。それって紹介じゃなくて自己愛じゃないかね。自己愛が匂い立つようなPOPって時折あるように思われて、それがもう、POP嫌いを加速させているよ。
とかいうとあれかなあ、みんながみんなurouroさんみたいだったら本屋さんだってそんなことしませんよ、という話になるんだろうなあ。そして今の購買層にいかに本を売るのが大変で、このままだと街から本屋がなくなるかもしれないんですよ、とかそういう話になって、そしてそのロジックはすごく良く分かるし、またこちらにしても本屋大好きという弱みがあるから、結局のところ、「本屋が好きなら本屋を守るために闘っている書店員を後ろから撃つようなまねをするな」という論調になって、非国民ならぬ非本屋愛好家みたいに蔑まれて、むなしく下を向くしかないんだろうなあ・・・・・というすべてがイメージできて、もう、ものがなしい以外のなにものでもないですよ。
だからね、大きな声では言いませんけどね、手書きPOPがあると居心地がわるくなるんですよね。ざっと書棚を見渡したときに目に入る情報量が多すぎて、落ち着いて本を選べない。手に取りづらいし。うっかり自己愛POPが目に入ると気持ち悪くなるし、その本の印象まで悪くなるし。そんなPOPに惹かれてるみたいに他の客に思われるの癪に障るし。まあそういうわけで、手書きPOPつける本屋は自然と行かなくなるし、もうなんかみんなネットで買えばいいんじゃないのという気がしてくるくらいには居心地悪いですねえ。
とかとか懊悩しつつ帰ってきて、ここに書こうと検索したら、「京都水無月大賞」のはてダがあったよ。大爆笑。こんなさんざん八つ当たりされた記事からトラックバック打たれても迷惑だろうなと思うのでリンクしませんが、そうはいいつつも本屋は応援したいので書いておきます。「/minaduki_taisho」みてみてね。

 最近の週刊誌は皇太子と秋葉原通り魔

この2つが特集になってるとなんか笑える。
自分は2ch既婚女性板アンチ皇室スレを愛読するものなので、昨今の皇太子に対する「イカガナモノカ」目線には大変に興味を持っているが、それにしても各誌横並びっぽく一斉に「イカガナモノカ」するのはなんなんだ。
っていうかさー、離婚すればいいじゃんねえ。ほとんど自己決定権がないひとが国の象徴って。なにその地獄人形ってかんじです。しかしアンチ皇室スレッドは面白いよ。一読をおすすめします(笑。

 マンガ編集出版企業はユートピアなのか

(タイトル変えました)
承前。
自分はずっと、「はたらく」ということに関心があり、はたらくことや労働と個人の生活をどう結びつけるかについてあーでもないこーでもないということは、このはてダのわりと頻出するテーマです。って一年間もほったらかしてて頻出って(笑。
なので、本件についても「大ヒットを飛ばす会社員マンガ編集者はモーレツ会社員」なのかどうかということにひどく惹かれます。そういう関心から本件につれて出てきた漫画家サイドの怒りを読むと、(1)納入物(にしてそれが散逸するとお互い困るブツ)をなくす、(2)主体的に企画開発に携わらない、(3)無理なスケジュールでやり直しを命じつつ自分は土日は死守、というようなクレームは、はたして極めて通常よりも熱心な会社員じゃなければ対応できない内容なのか、という疑問がわいたのでした。これらをケアできないのは、極めて優れた会社員として、ではなくて、通常の会社員としてだめなんちゃうんかいな、という風に疑い始めたわけです。
ここで注意する必要があるのですが、自分の疑いは、漫画家サイドの言い分を前提としているので、正当性や真実性についてはとても怪しいのは事実です。しかしここまでいろいろと出てくるからには、全面的に漫画家サイドが捏造しているとは考えにくく、やはりなんらかの火種はあると仮定して話をすすめます。
さて、マンガ編集出版業は、手工業のクリエイターの作品を仕入れてそれを販売するという意味では、一見、画廊みたいな商売です。しかし画廊が仕入れたものをそのまま売るのに対し、マンガ編集出版では、最終商品はコンシューマ品になるのが面白いところです。あまり似たような業種を思いつかないのですが、事業者自身がなにかを製造するわけではない点とか、消費者と常に向き合うのは事業者自身である点とかから、小売業とはわりと近いかなと思いました。で、小売業に対比して考えてみると、大手小売はもちろんメーカーに対して優位にあるのでいろいろと無茶も言うわけですが、メーカーに訴えられるくらい取引条件が横暴な小売業というのはわりとレアなのではないでしょうか。というか、もし担当者個人の行為が原因で訴えられたりしたら、その担当者ってどうなることやら。また、大手小売といえどもブランド品のメーカーには腰がひけるわけで、拝んで納入を要請したりするわけですが、今回の件では、かなり名の知れた漫画家でさえもブランド品あつかいにはなっていないということに、とても驚きました。あまりにもマンガ編集出版企業が漫画家に対して優越しています。ここまで取引先相手に一方的に強気に出られるなんて、会社員としてどんだけ楽なことか、と、とてもうらやましく思いました。びっくりするほどユートピア
で、夢想するわけです。流通とか商社とかでバイヤーとしての訓練を受けたビジネスマンを何人か揃えてマンガ編集出版業を起業したら、なんか容易に、差別化戦略できるんじゃね、みたいなことを。近江商人の経営理念として「三方よし」というのがあります。「売り手よし、買い手よし、世.間よし」じゃないと取引はあきませんよ、というやつです。巷のビジネス本読めば氾濫してますし、伊藤忠商事なんか「伊藤忠のDNA」とか言い切っちゃってますが、そういうマインドで経営するマンガ雑誌、ってどうかなあ。まあそれは冗談としても、結局、寡占業界なうえに志望者がいっぱいいるから、有力なメーカーをよそに取られたら・・・、みたいな焦りなく経営してるんでしょうね。もちろん一部の漫画家には下にもおかぬおもてなしをしているのでしょうが、下っ端ならともかく中堅にまで邪険にできるのは競争の少ない業界なんだろうなあという気がします。うらやましい。
二日前の記事では、会社員なめんな、と書きましたが、今、一般的な日本のビジネスマンは、自己の生活をなげうって労働生産性を上げろというプレッシャーにさらされやすい環境にあると思います。年功序列崩壊しているし、非正規労働者による代替は進展しているし。自分は総合職会社員として、自分の担当している作業内容が、派遣社員では代替不可能であることをアピールしつづけることを常に求められるような息苦しさを感じています。書店のビジネス本コーナーでは、仕事術とか生産性アップというテーマの書籍がどれほどあふれていることか。そういう「生産性!」ムーブメントにはほんとに辟易しているんですが、「言われたことをやる」というのはもはや会社員の要件としては最低レベルで、自発的にクリエイティビティをあげるのが良い会社員みたいな価値観が、どうも流布しつつあるような気がします。まあ自分がアッパーミドルだからかもしれないけど。経営者サイドの人的マネジメントの目標像って、残業代のいらないモーレツ社員なんですよね、結局。昔は企業文化のせいでほっといてもモーレツ化していたけど、会社神話崩壊後はそうもいかなくなったので、システムとしてモーレツ化教育を講じているような。ポジティブな被雇用者は、終身雇用が崩壊した現状への適応戦略として、転職可能性を高めるために自身の生産性向上にわりと真面目に取り組みつつあるとも感じられ。モーレツ化しないとどこかで職を失うのではないか、という不安感がなんとなくあります。
という背景から、自分は、「モーレツの時代じゃないから会社員マンガ編集者に多くを望むのは難しい」というテーゼに興味があるわけです。無言のうちにモーレツ化を強要してくる労働環境が産業界の一部にある一方で、なぜこの問題を語る人はマンガ編集出版企業の会社員にそれを声高に求めないのか。それを求める漫画家サイドの言い分を、言ってることはわかるけど会社員にそれを言うのは無理だよ〜みたく流しがちなのか。大変興味深いです。

 「会社員なめんな」

上のつづき(上から下に新しくなるスタイルに改めます)。誤読されても困るのできちんと書くが、「会社員なめんな」というのは会社員であるということを盾に(制約条件として)作家にオーボーな態度をとる編集者への[マンガ読者+会社員]であるワタクシからの怒り。具体的には、「編集者が安い給料で仕事してるのは土日は何があっても休めるという保証があるからだ!あんたたちは高い年収もらってるんだから寝ないで仕事しようが遊ぶ時間がなかろうがかまわないけど、こっちの休みまで奪うな!」(まゆたんのブログ)とか言っちゃう品性。
大手出版社って世間一般よりも給料いいのに、裁量労働適用だろうに、っていうかカレンダー通りじゃなくて出版日を中心にすえたサイクルで動いているであろうくせに、「土日は何があっても休める」ということを前提として押し切るスタンスに呆れた。マジで会社員なめんな。っていうかお前が休みたいだけなのを会社員という階層一般の条件みたいに回収するなボケ。お前個人の希望として言えや。
業種問わず総合職で「土日は何があっても休める」と言い切れる会社員はなかなかいないですよ、昨今*1。エージェントを漫画家側に立てたとしても、受け手の会社員がこの手合いだとトラブルは持ち越されるのではと案じられる。

*1:この点については、労働の問題として気になる部分もあるけど、それについては稿を改めます